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2015年07月06日 (月) | Edit |
2015-06-12 002ed

「声」とは、私にとって、からだに触れるものであり、眼に見えるものなのです。声は耳で聞くものというのが常識なのでしょう。けれどもその常識のせいで、声を出す喜びや「こえ」の持つ可能性が狭めれれているように思えてなりません。

たとえば、言葉を発している(話している)人の横に立って声を聞いていると、その人の声が、当人の胸の中で、あばら骨にまとわりつくように響いているのが見える。まるで洗濯板を擂粉木(すりこぎ)で擦り(こすり)回しているような響き(声音)です。

当人にとっては、胸を板のように固めてそこに声を響かせることが、普段の当然な発声になってしまっていて、自分の声(発声)に疑問はないわけです。ところが声自体に即してみれば、声が胸のところに捕えられていて、外に出て行くことが無いのです。声が自分の身体の中に拉致されているのです。

彼が何を話そうしているのか、その言わんとすること(言葉の意味)は、音声として聴きとれるのだから良く分かります。言葉を象(かたど)る音(声音・子音や母音)は、胸板に共鳴して、明確に発音されているのですから。彼の語る文脈や意味は立派に他者に通じるのです。

ところが、私が彼の声を見て(聞いて)いると、言葉の本体となる「声」は、まったく他者には届いていない、触れていないのです。

当人にそのことを指摘して、胸の強張りをほどき、話しかける対象(眼の前の相手)に注意を促します。自分の中に声を留め置こうとする無自覚の集中を、相手に声を届けることへと、集中のベクトルを方向転換をしてもらいます。

そうすると今まで自分の中に留め置かれていた「声」(言葉)が、相手に向かって姿を表します。声自体が他者との距離(空間)を超えて、相手の「からだ」に届きます。このとき聞き手は、自分の「からだ」に相手の「こえ」が触れてくるのが感じられます。

呼吸=息遣いが動き始めます。言葉を、黒板に板書し羅列するような、それが美声であろうとだみ声であろうと、小さな声であろうと、それまでは平板な文字の羅列であった声と言葉が、リズムと色合いをもって聞き手の「からだ」を動かします。聞き手の「からだ」の中に感動=イメージを呼び覚まします。

これは、「声」を耳で聞くという限定を離れることで広がる、「声」の世界のほんの一例です。

「声無き声を聞く」と云いますが、自分の常識的な観点に留まっていては決して聞こえてこない、声無き「声」があるのです。「聞こえる声(声になる声=発言内容)」だけを聞いていても、他者の声を聞いたことにはならないのが、人間と人間とのコミュニケーションの難しさだと思います。

【「字面(じづら)を追う」と云います。文章の内容への理解や疑問を省いて、紙面に綴られた文字情報に、ただ眼を通すことです。これとは少々意味がずれるかも知れませんが、私たちは人の言葉(声)を「聞く」とき、「言葉面(づら)を追う」ばかり、他者の発言(声)を文字情報として理解することに重きをおき、言葉づかいの巧みさだけが讃えられ、発言された言葉の背後に隠れた、個人の世界(からだ・呼吸・イメージ・内面の動き等々)を無視していることが多いのではないでしょうか。知的な理解よりも、「声無き声を聞く」ことの方が大切だと、私は思っていますが。】

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