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2015年06月26日 (金) | Edit |
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私にとって母音「あ」の「こえ」が出るということは、「こえ」がその場の空間を明るく塗りかえることです。

「からだ」は透き通った管(笛)のよう。大地からの息吹が吹き抜け、笛を鳴らします。母音「あ」の「こえ」が、明るい輝きを帯びて空間を満たすのです。

その場に立ち会う人たちの「からだ」も、その響きに共鳴し、大地からの息吹が、管(くだ)の内面のくぐもりを洗い流すようにして、強張りから開放されて行きます。

「あ」の原音は、赤ん坊の産声(うぶごえ)に通ずる、まだ何の加工も受けていない、「からだ」が人生の闇を負う前の、「いのち」の響きそのものかもしれません。阿吽の「阿(あ)」の字なのでしょう。

「こえ」自体が、意識を介さずに、他者の「からだ」を直接に開放して行きます。聞く者の「からだ」(=管)に共鳴を起こし、「からだ」の内側から、抗い難い開放をうながすのです。いや、抗うことを意識することも無い、それは大地の息吹を帯びた、自然の過程なのだでしょう。「からだ」が開かれ、笑みがこぼれます。

「こえ」を発する者にとって、「自分が」あるいは「自分で」、「こえ」を出しているという実感(能動的な体感)は失われます。「こえ」自体が、自分の努力とは無縁のところで、内側から外部へと、ただただ響き出しているように感じるのです(受動的な体感)。

「こえ」自体が勝手に自分を吹き抜けていき、意識は干渉することなしに「こえ」が出て行くのを見守ります。「こえ」は「越え・超え・恋え」と訓むこともできます。自我の干渉をこえて、「こえ」は直接に自分の内面を露わにし、他者の「からだ」に至ります。

これが「ことば」を発することになると難しくなります。「こえ」によって、自分の内面に生起する感情やイメージを、直(じか)に他者に露わにすることになるからです。「はなす」は「話す・離す・放す」です。自我の手綱を手放すことへの恐れからか、「そんなことをして何になるのか?何の意味があるのか?」という、日常的・常識的な規制が意識の中に頭をもたげるのです。

大地との結びつきを更に確固たるものとしなければ、「からだ」の深みに眠る感情やイメージを、言葉(ことば・こえ)として開放することは覚束ない。私たちの「からだ」は大地(地球)の一部、もしくはそのものです。大地に依って生かされていることへの信頼を取りもどさなければ、言葉はむなしく宙を飛び交うばかりです。

私たちの「からだ」を通じて大地が語るのです。このような言葉は、大地(地球)から私たちに与えられた比類のない「宝」だと思います。宮沢賢治の童話はこんな言葉へと、私たちを導いてくれるのです。

【劇場空間を満たす空気が、光の粒子を散らすように、キラキラと煌めいて見えた体験があります。昇華という言葉が浮かびました。観客と演技者の間で、深い感情の交流が成立していたのでしょう。私にとっては初めての大きな舞台公演の演出でした。レッスンや舞台稽古で「からだ」に関わっていると、日常的な常識をはなれた不思議な体験に出会います。私の文章が常識外れで難解になるのも仕方ないかもしれません。】

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テーマ:創造と表現
ジャンル:学問・文化・芸術