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2015年06月22日 (月) | Edit |
2015-06-10 008ed

舞台空間について考えてみたい。

私自身は、舞台に向かいあって腰をおろすと、舞台空間一杯に自分の「からだ」を広げる。背すじを伸ばし息を深くして、丹田に意識を下し、自分の身体の緊張を消し去る。日常的な身体の実感が融けてなくなり、舞台空間へと「からだ」が広がって行く。思考は停止し、頭も空っぽである。

「日常的な身体の実感」と云うのがポイントかもしれない。私たちの五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)は、日常的な世界に縛り付けられている。何を美しいと思うか(美醜)、何を嫌悪する(好悪)か、その他にも様々な判断をしているわけであるが、これらは五感でとらえられた体験に基づいて、私たちの日常生活を規定している。

卑近な例だが、麺をすする音を不快に思うか、気にならないか?芋虫を食べ物と見るか、気持ち悪いと感じるか?同じ芋虫を五感でとらえて、好悪を判断するのは、文化的な規定であって、絶対的な判断ではない。五感は、日常生活の価値判断の枠組みの中に囚われているのである。私たちの身体は、五感の働きによって日常に埋没しているのである。

このような五感の働きの日常への囚われから、自分を引きはがしたところに何が残るか?それを私は「からだ」と仮称している。平仮名で表記することで、いわゆる解剖学や医学・スポーツ・健康法などで扱う身体(肉体)とは、「からだ」の示す意味内容を区別をしている。

東洋的な身体観で語られる「気」「空」「無」などが、この場合の「からだ」に近いものかもしれないが、私はこれらの言葉もあまり使わない。今ここにこうして置かれている自身の身体の座標を離れて「からだ」のことを語りたくは無いからだ。

さて、舞台空間一杯に「からだ」を広げる。自分の皮膚を引き伸ばして広げて透明な天蓋のように、舞台空間を覆うと云えば良いかもしれない。私の五感は天蓋の外へと追いやられるのだろう。その天蓋の内側の空間が「からだ」である。

空間と言っても五感によって計れない空間であるから、広さや方向を規定できない。物語や小説を読みふけるときに私たちが踏み込む世界に似ている。様々な物語が生まれては消えて行く、そこでの出来事を無限に包容して行く場が、この場合の「からだ」である。

舞台空間とは、観客の「からだ」によって創り上げられる。日常的な感覚によっては捉えることのできないながらも、想像の世界が生まれる出る可能性に満ちた、非日常的な時空間なのである。

私は、日常の延長の中で評価された、巧拙や技能を舞台に持ち込むことを否定する。個人の想像力によって「いのち」を帯びたもののほかは、舞台空間では意味をなさないからである。

【時間と空間の制約を離れた場があります。それが舞台空間です。そこでは人の一日の出来事が1時間の内に演じられます。私たちの日常とは異なる時間が流れています。また、舞台の空間は観客席に向かってひらけ、庭であったり街路であったり野山であったりと、様々な光景が広がります。舞台空間は無限の中に様々な世界を包容します。】

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テーマ:創造と表現
ジャンル:学問・文化・芸術