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2015年06月15日 (月) | Edit |
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そういえば、竹内演劇研究所時代(なんと30年前)に、竹内敏晴師匠の指導で仮面のレッスンを受けたことがあった。いま思えば、これも対象の内面的な動きを、自分の身体の内側で受け止めるレッスンだったのだ。

笑いの面、泣き顔の面、氷の面等々、人間の表情をデフォルメした、様々な仮面を被り、仮面の人物像そのものになって演技をするレッスンである。

小刻みに揺れる蝋燭の灯りに照らされて、手に取った仮面の表情が、まるで生きて動いているかのように見えてくる。仮面と正面から向かい合っていると、私の身体の内側に動揺が起き、緊張感が高まってくる。

仮面に託された、妖怪のようにおどろおどろしく、情念(感情・情動)をむき出しにした存在を、自らの身体に引き受けろと云うのだから、動揺して当然だろう。仮面が求める情動の激しさと、それを抑え込もうとする自我の力が葛藤を引き起こす。その緊張の頂点に、面をヒラリと返して自分の顔に付ける。

鏡に映る自分は、自分ではない。姿勢も動作も仮面のそれとなる。仮面の持つ情動に牽引されて、私の息遣いが荒ぶる。私のものではない情動のダイナミズムが私の身体を満たし、仮面の持つ、原始的な衝動が私の身体を内側から突き動かす。

私は、手足の指先から頭の天辺まで、つまり全身の隅々までに神経を行きわたらせる。さらに自分自身の身体の輪郭を超えて、身体の空間イメージを大きく支え、私を乗っ取ろうとする仮面の情念を全力でコントロールする。

私ではない存在、仮面の持つ人格(ペルソナ・神格?)が、舞い始め、踊りだし、他者に向かって行動を起こす。生々しいむき出しの情念が、異なる情念(仮面)を帯びた相手役とドラマを紡ぎ、切り結び、情動を極限まで高めていく。ときに怒り狂い、ときに雄叫びをあげ、凍りつき、笑いを爆発させ、悲しみに身体を震わせ、、、。情動の大波に身を委ねながらも、帆を揚げ水面を切ってすべりゆくような、、、歓喜!!

    *    *    *

ふつう「見る」ことは、対象を自分の外部に置いて「見る」。それを観察とか認識と云う。対象から距離を置いて、自分を安全圏や不動点、対象の影響を蒙らない地点に置いて物事を眺めている。けれどもそこからは見えない「見る」がある。彼我を離れ、対象と一つになって「見る」=「観る」ことが。

【私たちは身体の上っ面にある感覚(五感)に頼り過ぎているようです。五感が際立ちすぎると身体の内側にある感覚が置き去りにされてしまいます。五感を磨くとは、その能力を高めるのではなくて、五感の曇りや濁りを取り去り、身体の深部(芯部)の感覚を浮かび上がらせるために成されるのでしょう。それは、自分の身体の中にあるいのちの故郷、その温もりを再発見することかも知れません。】

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