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2015年05月29日 (金) | Edit |
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私は自分の「からだ」への信頼感が強いようです。それは「いざ!」となれば「からだ」が何とかしてくれる!」と云う安心感を常に持っているのです。

運動神経が特別優れているとか、体力が秀でているということではありません。序でながら、私は頭も特に良いわけではなく、どっちも人並みです。

この頃は、事に当たって、出来るだけ頭を使わないことを心がけています。レッスン(ワークショップ)のときも、「からだ」をその場に放り込むだけ。計画を持たないから、いつも何が始まるか分からない。チョッピリ緊張もします。

それでも、グズグズと考え込まずに、みんなの中に「からだ」を置いて、その場に集う人たちの「からだ」に眼差しを向けていると、「こんなことをやって見ようかな?」「こうした方が良いな!」とか、「からだ」の側から考えが浮かんで来ます。

「からだ」に任せれば、レッスンの内容が次々に生まれてきて、集中はどんどん深まって行き、終わってみれば、今日も良いレッスンだったなァとなるのです。

意識(=私)のお役目は、「からだ」が織り成す出来事に、ちょっかいを出さないこと。意識の方が小心者で、時々ハラハラすることもあるのですけれど。

レッスンを進めるのは、私(=瀬戸嶋)ではありません。「からだ」がレッスンをするのです。私=意識は、その場の私や参加者の「からだ」の綾なす出来事を、見守り続ける「観点」でしかありません。「観点」を閉ざすことなく、その場に意識的に広げておく努力が必要なときもありますが、レッスンの主体は「からだ」です。

レッスンの場は、私にとって舞台であり劇場であるのかもしれません。意識の介入や懐柔を許さずに、直接に「からだ」と「からだ」がぶつかり合い、触れ合い融け合い流れ合い、生きた時空と道を切り開いていく。

レッスンを終えたあとには、未知の道を切り開きながら、全力で歩きぬいた爽快感がのこります。けれども、何かを得たぞ、達成したぞ、という実感はほとんどありません。

【ネタばらしみたいな気もしますが、「からだとことばのレッスン」の最中に、私から観た私自身の有様を大雑把に書き出してみました。レッスンをする以上、私の立場は教師なのでしょうが、ちょっと特殊かも知れません。普通の先生たちはどんな心持ちで授業(レッスン)を進めているのか、知りたいものです。それにしても「からだ」がレッスンをするって分かり辛いですね。内なる自然と云ったらどうかな?それも分かり辛いですね。いっそのこと魂とか仏性とか、、、嘘っぽいですね(笑)】


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