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2015年04月05日 (日) | Edit |

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日本語のまったく分からない、ドイツ人の女優さんが、舞台で日本語の詩の朗読をすることになりました。彼女は日本語を聴き分けることも話すことも出来ないのです。

彼女は、日本人スタッフに詩を読んでもらいながら、日本語(漢字・平仮名)で書かれた詩の言葉の横に、「私」ならば「wa・ta・shi」、「世界」ならば「se・ka・i」と云うように、ローマ字(ドイツ語?)でルビをふっていきます。

そして、そのルビを声に出して読みはじめ、日本語の発音が正確になるようスタッフに訂正してもらったり、文章や言葉の区切りを直したりと、繰り返し練習しています。本番の舞台までにはもう時間がありませんでした。言葉の意味や、詩の内容を理解している時間は無いのです。ともかく音(発音)と区切り(文節)を正確に語る練習だけで精一杯でした。

女優に付き添っているスタッフが、不安げに、私にアドバイスを求めてきました。このまま舞台に乗せて良いものか、判断に困っている様子です。ともかく観客が入場する前に、舞台で詩を朗読してみようということにして、私は客席にまわりました。

舞台上の彼女は、言葉の一音一音を正確に響かせることだけに集中しながら、客席に向かって真っすぐに詩の言葉を語りかけてきます。

客席で聞いていると、響き出す言葉の音(おん)の一つ一つが、粒立つようにして、色合いと輝きをもってこちらに届いてきます。まるで、色とりどりの原石(宝石)がひと繋がりになって、キラキラ輝きながら、次々とこちらに放たれて来るような印象です。

「日本語って、なんて美しいのだろう!」私の感想です。美しさだけはなく、言葉の意味も内容(イメージ)も見事に浮かび上がってきます。詩の心(詩情・感情)も、女優の心の中から客席に向けて真っすぐに伝わってきます。即座にゴーサインを出しました。

本舞台、観客は彼女の語ることばに静かに聞き入っていました。たどたどしさはあっても、詩の意味も詩情もちゃんと伝わってきます。彼女が日本語をまったく分かっていない、話せないとは、誰も思わなかったのでは無いでしょうか。素敵な詩の朗読となりました。

    *    *    *

日本語をまったく理解できない人の朗読に、私はたびたび立ち会っています。けれども、これは他人に話してもなかなか理解してもらえません。日本語がしゃべれない人に日本語で朗読が出来るということが想像しがたいようです。

勉強し日本語を理解しなければ、話せるわけがないだろう、ましてや朗読なんて、という常識が邪魔をして、この事実を受け入れることが出来ないのかもしれません。

けれども彼らの朗読する日本語は本当に美しいのです。鉱山から掘り起こした鉱物や宝石の原石のように、語られる一言一言が色とりどりに煌めきます。その輝きに照らし出されるようにして、言葉の意味やイメージが浮かび上がってきます。

このような言葉を「原ことば」「元ことば」「原石ことば」「ことばの原石」「原石としてのことば」などと名付けてみます。(なんとなくしっくりきませんが)

じつは、日常的生活や社会のなかで、日本語をなに不自由なく使えるようになる、つまり日本語が喋れるようになると、「ことばの原石」は失われてしまうように思うのです。私たちが普段使っている言葉は、生活の利便のために目的に応じて加工され操作された、人工物になってしまってしまっているのです。

知識や理解を説明するための言葉であったり、感想を伝えるための言葉であったり、意志疎通のための言葉であったり、指示するための言葉であったりと、言葉を何かの目的のために利用することに馴らされ、それだけが言葉だと思いこんでしまっているようです。

朗読や演劇の言葉に対する態度も大差ないようです。本来は「ことばの原石」を表現することに責任をもつはずの俳優が、加工され私物化された言葉で、舞台を人工的に飾る。芝居嫌いの人たちが「ワザとらしくて観る気にならない。物言いや仕草が気持ち悪い。」と云います。厳しい話ですが一理あると私は思います。

「ことばの原石」の輝きは「いのち」自体の輝きなのだと私は思います。考えてみれば、私の実践は世間の常識的言語観の外に出過ぎてしまったのでしょう。「からだとことばのレッスン」の「ことば」とは「原石としてのことば」のことです。宮沢賢治さんは「春と修羅」という詩の中で「まことのことばはうしなわれ」と語っています。「まことのことば」とは「ことばの原石」のことなのかも知れません。

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