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2015年03月19日 (木) | Edit |

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「遠い世界に~♪」昔のフォークソングをギター片手に歌い出しました。腰骨の辺りが振動します。骨盤(仙骨や腸骨)が歌声の響きに合わせて振動します。歌をつづけながら注意をうつすと、足の骨(脛骨や大腿骨)も振動しています。

骨盤を垂直に立てるつもりで、腰の後ろ(仙骨の辺り)を軽く引締めながら、続けて歌をうたっていると、心に浮かんだメロディーや歌詞が、「からだ」の内側全体に滑らかに響きだし、足腰だけではなく、笛を吹き鳴らすように頭骨を震わせ通り抜け、歌詞の「ことば」(音韻)が「からだ」の外へ流れ出していきます。

メロディーを正確に取ろうとしたり、歌詞の音声を響かそうとする努力(緊張)は、全く必要ありません。譜面を目にして「からだ」の内側に浮かんで来る、歌(歌詞とメロディー)のイメージそれ自体が、私の「からだ」を道具にして、自由に歌を奏でさせているみたいな感じです。

歌をうたおうとするときの、身構えや緊張努力は全く消えてしまい、歌うことの心地よさと喜びが、自分の「こころ」と「からだ」を満たしていました。

    *    *    *

ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音の高さ(音程)が取れない。4分の1拍子や3分の1拍子など、拍子を合わせることが出来ない。テンポやリズムがずれていて、声に出して歌っていると、聞いている人には何の曲を歌っているのか分かりません。「音痴」です。

また、言葉の一音一音の響きがくぐもったり、逆にひどく力んで耳障りだったりと、声を出している本人はもちろん、聞いている人にとっても不快感をもよおす歌声。何とかしようとすればするほどに、聞いている相手の表情が強張り、場の空気が凍ってきます。自分の心も萎えてきます。あきらめの境地。「音痴」です。

音痴は、歌えないわけではありません。むしろ心の中では、心地よい音楽が旋律を奏で、気持ち良い歌声が響いている。自分の中には素晴らしい音色(=イメージ)が渦巻いている。だからそれを人にも伝えたいし、聞いてほしいと強く思います。けれども歌声を発した途端に、自分も他者も幻滅します。「音痴」なのです。

「音痴」は矯正できるでしょうか。音程や拍子、リズムの取り方の訓練。声帯や頭部の緊張をほどくことで、歌声を明瞭にすることも出来るはずです。正確に音符(譜面)に合わせて、歌声をきれいに響かすことは、先生について練習することによって可能でしょう。音痴矯正のプログラムもあることでしょう。

その結果、他人から見ても、テープに録音した歌を自分で聞いても、ちゃんと音楽として聞けるものになるでしょう。教師や他人の常識的な評価にかなう歌唱ができるようにり、仲間とともに歌う喜びも叶うことでしょう。カラオケでも臆することは無くなるでしょう。

けれどもそれが、自分の心の中(=「からだ」の内側)の世界に響き渡っている音楽や歌を、直接に表現し他者に手渡したことになるでしょうか。

じつは、このような練習は、意識的に自分をコントロールすることで、歌をうたうことです。自分の心はさておいて、脳にインプットした楽譜やテクニックを自分の身体をコントロールすることで正確に再生する訓練です。意識(脳)にインプットされた演奏プログラムに基づいて、身体を使って音楽を歌を奏でる訓練をし、歌をうたえるようになったものです。歌うことは録音テープの再生と同様なのです。

これでは、「いまここ」に生きづいている、自分の「からだ」の中の感動(=「こころ」=リアリティー)を、直接に他者に手渡し、感動を共有することにはならないのです。

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私は極度の「音痴」でした。今でも下手に変わりはないと思いますが、自分の「からだ」の中に息づく感動を、そのまま歌の「ことば」としてメロディーにのせて、歌うことができるようになりました。

骨が鳴る(振動する)と云うことは、「こころ」の動きが全身の骨にに共鳴を起こし、音(「からだ」の動き)として表現されることです。意味を伝える音声としてだけではなく、「からだ」の中にうごめく感情やイメージまでが、響きとして表現されます。「こころ」と「からだ」は一つになり、「こころ」の動きは直接に「からだ」の動きとしてあふれ出し、他者に向かって響き出します。

歌手のように美しい歌声を響かせ観客を感動させることが出来るわけでは決して有りません。けれどもテクニックや装飾なしに、歌を通じて直接に、自分の「こころ」を相手に届けることの喜びが、私はようやく分かり始めたようです。

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