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2015年03月02日 (月) | Edit |

2015-02-19 001ed

「やめろよ!」小学校5年生の教室で、相手の心を射抜いた、私の言葉です。二年半に渡る、同級生からのイジメに終止符を打った言葉です。相手が目を向いたまま、息を呑んで固まっている姿が、今でも目に浮かびます。

私が「ことば」のレッスンに臨む原点は、この辺りにあるようです。「ことば」には、何かを変える力がある。

自分の気持ちを説明し、相手に理解や共感を促し、相手の意識や行動を変える「言葉」。感情にまかせて、相手に向かって礫のように投げつけられる「言葉」。コンピュータ・データーの転送のように、相手に理屈や情報を流し込む「言葉」。

その何れにも属すことのない「ことば」。「ことば」が発されることで、私達の日常地平が覆され、裏返しになってしまうような「ことば」。その「ことば」の発される前後で、世界の意味が変わってしまうような「ことば」。世界を変化の渦の中に呑み込む「ことば」。

「イジメる」「イジメられる」と云う抜け道の無い関係は、加害者‐被害者という常識的な構図では割り切れない、両者が共々に抗い難い暗い渦の中に呑み込まれて行くような、そんな世界の中に置かれていることのように思えてきます。

「やめろよ!」と云う「ことば」がその世界を突き破るようにして突出してきました。互いの目の前に佇立する「ことば」をはさみ、私も彼もイジメへの衝動や心理を忘れて、虚空の中に裸のままで立たされる。「やめろよ!」の「ことば」は、私自身が発したものであるにも拘らず、私に属するものではありません。眼の前に立つ、一つの存在となってしまいます。

私自身が「ことば」によって突き破られ、私自身が奪われたのでしょう。決して、その場を何とかしよう、相手を何とかしなければと、意志し努力して発された言葉ではありませんでした。

以降、学校の教室の中で私の在り様が変わりました。イジメの呪縛から解き放たれ自由になり、また、クラスの人間関係のダイナミズムも大きく変化したように思います。

    *    *    *

「へえ、象がダイヤル回すんですかィ。可愛いですねェ。」舞台に立ち、観客席の暗闇に向かって言葉(セリフ)を発した時、私の目の前に象の前足が見えました。前足で象が黒電話のダイヤルを回しています。唖然としてその光景を見ていますと、一瞬の間をおいて観客席に大爆笑が響き渡りました。

その瞬間、おそらく観客の目の前にも、ダイヤルを回す象の姿が見えていたのでしょう。観客は劇場の客席に腰をおろしながらも、我を忘れてその光景に見入っていたのだと思います。ふと我に帰り、そのあまりの不合理さを吹き飛ばすように、笑いが溢れてきたのでしょう。

このときの私には、セリフをどんなふうに語ろうとか、観客を笑わせてやろうという意図や意識はもちろん、頭にイメージを思い浮かべようとすることも、まったくありませんでした。「ことば」が自分の口からポロリとこぼれたその先に、光景がやって来たと云う感じです。

この瞬間に、観客は、椅子の固さやお尻の痛さ、からだの窮屈さ、舞台装置の見事さや、照明のまぶしさ、冷房の冷たさなど、そのような自分を囲む、現実の実感を離れてしまっていたことでしょう。「象がダイアルを回す」光景、その世界に、自分や回りの現実の状況を忘れて飛び込んでいるわけです。

これは、演技をしている私にとっても同じことで、舞台に置かれた小道具は、客席の椅子同様にただの作り物でしかない。降り注ぐ陽射しも、人工的なライトの明かりでしかない。劇場空間全体が、人工的に組み立てられた物体に依って構成された場であり、物質的には私達の日常生活を送る世界と同じ地平の延長でしかありません。

この意味で、観客と演技者は、劇場内で同じ地平に居て、同じ日常の世界を共有しています。そこに「象がダイアルを回す」と云う「ことば」と光景が突出して来る。日常的・常識的な世界が「ことば」によって突き裂かれることになります。

ちょうどこの上演を終えたころだと思います。私は、人間と演劇研究所の中に「からだとことばの教室」を立ち上げ、他のスタッフとは別の、独自の歩みを始めました。(「人間と演劇研究所」は、1988年に「竹内演劇研究所」の解散を受けて、私も含め当時のスタッフ3人で立ち上げました。)

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私は、1981年に、竹内演劇研究所に「からだとことばの教室」の研修生として入所、1984年に研究所スタッフとして活動を始めています。1988年3月の竹内演劇研究所の解散まで、通算7年間にわたって竹内敏晴に師事していました。

竹内敏晴との初めての出会いから34年が過ぎました。竹内敏晴の側近を離れて現在27年。その間、私のからだ(=こころ)を占め続けた課題は「竹内レッスン(からだとことばのレッスン)とは何だったのか?」「どうしたら自分にレッスンができるようになるのか?」という自分自身への問いかけです。「人間と演劇研究所からだとことばの教室」での私の実践は、その答えを自分のために明らかにするための活動でした。

近年、その問いかけが「なぜ私は、からだとことばのレッスンをしているのか?」「何のためにレッスンをしているのだろうか?」に変わって来ました。「ことばが劈(ひら)かれるとき」が竹内の著書名です。「ことば」によって「私」が劈かれる。「劈」には、「つんざく」=「突き裂く」の意味があります。

私は、竹内に出会う以前、既に「ことば」によって劈かれ救われた体験を持っていました。人間と演劇研究所を立ち上げで、私の向かう方向を明らかにしてくれたのも「ことば」でした。その他にも様々な「ことば」体験に促されて、私は「からだとことばのレッスン」を続けているようです。

「ことば」によって劈かれることが、また、その体験への道筋を示すことが「からだとことばのレッスン」の目指すところのようです。

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