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2015年02月24日 (火) | Edit |

2015-02-20 014ed

「からだとことばのレッスン」について、思い浮かぶままに書き連ねてきましたが、「ことばのレッスン」に関しては、その模様を文章に書き出すことが、とても難しく思えています。私の中で整理がついていないことにも原因がありますが、個々人の「ことばがひらかれる」過程は、一つの筋道(方法)に括れないからだと思います。

臨機応変と云います。一人一人のことばの開放への機会に臨み、変化に向かう一人一人のからだの情況に応じて、共に集中を深めていかなければ、ことばがひらかれることは成立しません。決まりきった方法は、役に立たないのです。いわゆる「こうすればああなる」と云う図式が役に立たないのが「ことばのレッスン」です。臨機応変 融通無碍が求められるのが「からだとことばのレッスン」です。

そこで、今回は視点を変えて、私自身の「ことば」体験について整理をしてみます。

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他者と話すとき、あるいはワークショップや会合のときに、私は自分のからだの実感を透明にして、その場の空間に溶かし込み広げます。二人で話すときならば、二人を包む空間を意識し、多人数であれば部屋の空間を満たすように、からだを広げます。

ちょっと分かり辛いかも知れませんが、自分のからだをそんなふうにイメージをして、その場に臨むと考えて良いと思います。

そうしたまま、相手の言葉や、ワークショップの場に集う人たちの発言に耳を傾けていると、私のからだの内側に(高電圧で励起されたような)「ことば」が浮かび上がってきます。

やがて「ことば」は、私自身のからだ全体(指先や足の先までも)の内側を、開放への内圧を高めながら満たします。「ことば」が私自身の中に坐を占め、引き絞られた弓矢のように他者に向かって放たれるのを待っています。

意識は、開放への衝動をコントロールする手綱です。「ことば」の意味内容をチェックしたり整理し直すことに意識が働くことはありません。

機を見て意識の手綱を手放せば、「ことば」は相手やその場の人たちに向かって解き放たれます。そのとき、私が自分の思いや考えを口にしているという実感はありません。「ことば」そのものが内包する衝動によって、その場を共にする他者へと、「ことば」が解き放たれて行く感じです。

ふつう話しをすることは、頭や心に浮かんできた言葉を、口頭で音声にして他者に向かって発声する、意識的・意図的な過程として捉えられていると思います。けれどもこの場合に「ことば」を話すということは、「ことば」自体が私と云う実体を破り出ていくことになります。(私の師匠、竹内敏晴の著書名「ことばが劈かれるとき」(=ひらかれる)の、「劈」には「つんざく(突き割く?)」という意味があります。)

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「言葉」と「こころ」と「からだ」と「場」が一つになった地点に紡ぎ出される「ことば」(統合としての言葉)。そんな言葉をこれまで私は求めて来たのだと、こうして「ことば」のことを考え直すことで気がつきました。

ここで「ことば」とは、私を在らしめる(存在させる)言葉であって、自分を説明したり理解や共感を求めるための言葉では無かったのです。そして存在と存在が向かい合うところに、新たに「ことば」はその「いのち」を復活し、「ことば」の創造性が発揮されることでしょう。

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「からだとことばのレッスン模様」といえるかどうか、むしろ私個人の体験に話しが向かうと思いますが、なんとか、引き続き文章を紡いでいくことができそうです。

この続きは、次回レッスン模様へ。

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