FC2ブログ
2015年02月06日 (金) | Edit |

2015-02-01 009ed

(活動写真館の伴奏楽団、金星音楽団の面々が、町の音楽会で演奏する第六交響曲の練習をしています。本番まであと10日、ホールの楽屋に円くならんで、みんな一所懸命です。)
にはかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はい。」(宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」より)

この物語の中のワンシーンを、みんなで読んでみます。ワークショップ会場では、みな輪になって床に腰をおろしているので、一人の人に立ってもらって楽長の言葉を語ります。

指名された人は頼りなげに「セロがおくれた。・・・」とみんなに向かって語りかけます。どうも迫力が無い。まわりのみんなを見ても、のんびりと彼の様子を見ています。

楽長は良い演奏を仕上げたいと思っているのに、楽団員の実力がついてこない。楽長は何とかしなければと、全力を尽くして指導をしているシーンです。

語り手(楽長役)の人に「まわりのみんなは、のんびりしているけど、それで良いの?」と聞くと、「いいえ」という。「では、まわりのみんながどうなればいいの?」と聞くと、「一生懸命に演奏の練習をして欲しい。」と答えます。「では、そのつもりで、みんなにセリフを語ってください。」

「セロがおくれた。・・・」こんどは、まわりの人たちに尋ねます。「今の楽長(語り手)の言葉を聞いて、一所懸命に、演奏の練習をしてみようと云う気になりますか?」みんなちょっと申し訳なさそうな顔をして黙っています。どうやら、その気にはなれないようです。

語り手の人も、困っています。そこでセロ弾き担当のゴーシュ役(聞き手)の人に後ろ向きに立ってもらって、「彼(聞き手)を自分の方へ振り向かせるつもりで「セロ」と一言、言葉を発してみてください。」ことばで、聞き手のからだと心に働きかけ、それを動かす練習です。

こんどは力を込めて「セロ!」と語りかけます。けれども結果は、「振り返る気にならない。自分に語りかけられている感じがしない。」と聞き手が云います。まわりで聞いていても、言葉が聞き手のからだに届いている感じがしません。

語ったときの、語り手のからだの様子を見ていると、言葉を発する瞬間に、肩を持ち上げ胸を固めて喉を詰めている。眼玉をひん剥いて、相手に視線を向けている。相手を動かそうとして、自分のからだにガチガチに力を込めています。

これでは、からだとことばが聞き手に向かって解き放たれることがありません。相手を動かそうとすればするほどに、身体的な緊張が自分の内側で高まり、からだとことばは自分の中へと押し込められてしまいます。注意を自分の中から、相手に向ける必要があります。

「私を「セロ!」と云う言葉だと思ってください。私のからだを聞き手のところに押しやりながら、「セロ!」と云う言葉を聞き手に届けてください。」語り手は、それこそ一所懸命全力を込めて、私のからだを押し始めます。相手を動かしたり、相手に伝えようとするときに身を固めてしまう習慣(身構え)を外すことは難しいのですが、相手(ゴーシュ役)に向かって私のからだを押しやるのを、何度も繰り返しているうちに、ようやく緊張が抜け、語り手の息が弾み、からだが熱気を帯びてきます。

そこで、「こんどは(私のからだは無しで)同じようにことばの重さを手のひらに持って、全力で相手に向かって押しやり届けるつもりで、語りかけてください。」

ようやく「セロ!」のことばが、聞き手のからだを打ちました。同時に聞き手の顔に満面の笑顔が広がります。まわりの人達からは拍手が。

始めに戻って語ってもらいます。「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はい。」その言葉の力強さに促されて、まわりのみんもそれぞれのパートを演奏しはじめます。楽器はないので、口三味線と弾く振りですが、地べたにすわったままで。(笑)

さて、こんどは楽長さん(語り手)に聞いてみます。「みんなの楽器の演奏は、あなたのこころ(=からだ)に届いていますか?」・・・。こうして金星音楽団の練習光景が、この場に浮かび上がってくるまで、からだとことばのレッスンは続きます。

    *    *    *

この場合の「ことば」って何だろうかと、私は常々考えさせられます。ある質量(重さ)を持った「ことば」が、相手(聞き手)のからだ(こころ)を打ち、その反応として相手(聞き手)のからだ(こころ)の中から感情やイメージが引き出される。もちろん言葉の意味も。そしてその感情やイメージを背負って、聞き手の側からも「ことば」が返って来る。それがさらに「ことば」のイメージや感情をクリアーに浮かび上げさせる。まるでテニスや卓球のラリーの応酬のように集中した時空が開けてくる。ただしその結果は、勝ち負けではなく、物語の世界が「いまここ」に浮かび上がってくる。

これは「演劇」という範疇を超えた試みかも知れません。古代の祭、種族の意識の底に秘められた物語を蘇らせ、共に生きる喜びを確かめ合う祝祭儀礼のように。ここでは「ことば」の始原を尋ねている模様です。「からだ」も「ことば」も「こころ」も大きな一つの「いのち」に還元されることを求めて。

関連記事