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2015年02月01日 (日) | Edit |

2015-01-20 002ed

「いよいよ「ことば」のレッスンです。」宮沢賢治童話「注文の多い料理店」をテキスト(台本)に使用します。配布されたコピーを手に取り、輪になって集まり、その中の一人が語り手(朗読者)として、みんなに語り始めます。「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれども・・・」と読み進めていきます。

しばらく様子を見ていると、みんな眼差しを台本に伏せて、周囲のことを構うこともなく、文章を読み取ることに集中しています。先ほどまで、からだの緊張をほぐしたり、声を出して息を開くことで、快活に息づいていた場の雰囲気が、凍り付いてしまいました。語り手さえ、本に顔を埋めるようにして、注意は文字面に向いています。周りの様子を目に入れることなく、声をむなしく空間に響かせています。

私は、息苦しくてたまらなくなり、「あなたは誰に物語(童話)を語っていましたか?」と読み手の人に問いかけました。みんなにも「自分たちに語りかけられている、感じがしていましたか?」と問いかけます。語り手も、またそれを聞いているほとんどの人も、何と云う質問をされたのかと戸惑っています。

私は語り手の姿勢の真似をしてみせます。こちらから見ると、当人の顔は、開いた台本の陰に隠れて見えない。台本に顔を突っ込み、本に書かれた文章を食い入るように見つめています。語り手のその格好を真似して見せますと「そうか!本に(向かって)読んでいる。」と笑い声が上がります。聞き手のみんなも、じつは同様です。そのほとんどの人が、台本の理解に注意を囚われて、語り手の言葉や声には注意を向けていない。

私はレッスンの中で、「本を声に出して読んで行くことで、物語に描かれた内容に、読み手の声を通して、みんなで一緒に出会っていこう。」と促します。そのために、「話し手の人は、「誰に向かって語っているか」を第一に意識し、みんなの方を見てみんなに話しかけるようにしてください。」「聞き手のみなさんは、内容の理解はさておいて、本を読むことよりも、話し手の人の声と言葉を聞くことに注意を向けてください。」「本に書かれた内容を理解することの中に一人で閉じこもらないでいてください。」

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語り手が、台本に顔を埋めるようにして読むのは、ある意味無理のないことでしょう。人前で、本の内容を理解するためには、視野を狭めて文章に集中することが必要なのだと思います。そして、頭で理解した事(言葉・文章)を音声にして、他者に発信する。大まかに言えば、自分の理解した文章や知識を、音声にして、相手や周りの人に届けるのが、言葉を語る(話す)ことの、一般的な意味になっているようです。

私は「ことばを語る」とは、それを話す人と聞く人たちの間に物語の世界を開くことだと思っています。そのためには、その場に集う人が、知的な理解以前の地点に立ち、お互いの「からだとことば」を感受し共有し合うことが前提になります。そこでは語り手の声とことばが、聞き手のからだに触れてイメージや行動(感情)を喚起し、それがまた語り手に感受され響き合い、言葉(物語)の背景に描かれた世界を浮かび上がらせてくるのです。

幼い子供に繰り返しお話しをせがまれた体験を持つ方がいると思いますが、絵本を読み聞かせるのに、理解や発声法はいりません。どんな不器用な読み手の語りであっても、子供が繰り返しお話しを求めるのは、「からだとことば」のこのような響き合いを前提にしているからと思われます。

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あらためて、一人の人が語り手になり、もう一人の人に聞き手になってもらい、みんなの前で語りの練習をします。テキストの中から短い言葉を選びます。例えば「ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしてゐました。」と語り出します。

話し手の人が語り終えたところで、私はもう一度、聞き手の人に「物語を自分に語られている感じはありましたか?」と尋ねます。こんどは話し手も一人、聞き手も一人で、話し手が聞き手に向かって物語を語っていることには間違いがないはずです。それにも関わらず「良く分かりません。」との答えが多い。「はい」という答えはめったにありません。

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みなさん、この質問に往生します。ふつうは話し手の語るのを聞いて、上手下手、発声の善し悪しや、音韻の正確さ、声量の適不適、好き嫌いなどと、評価を求められることはあっても、こんな質問はされた事が無いのでしょう。その上、相手が自分を見て語っているのは分かるし、声も聞こえているのだから、自分に語っていると判断するのは当然です。

ところが「感じがしますか?」の「感じ」は実感が持てたかどうかと言う質問です。知識や過去の体験に照らし合わせた、評価や判断ではなくて、その時この場で「感じられた」か「感じられなかった」かの問いです。その場(いまここ)での自己(=からだ)の体験を問われるのはみんな不得手と見えます。

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「語る」とは、相手のからだ(存在)に声とことばで触れ、相手のからだからイメージや行動(感情を伴う)を引っ張り出すことです。意識だけで、声だけで言葉を語っても、相手の内面に触れることは出来ません。相手の存在にからだ全体で集中し、自分の内面を相手に解き放ったときに「ことば」は成立します。ここで言う「ことば」とは、個人の所有物では無くて、他者との相互交感の場に立ち現れてくるイメージ(物語)のことです。

そのため、話し手(語り手)は、正確に文章を理解したり、音声を相手に発声する以前に、先ず「ことば」で相手のからだ(=存在)に触れて、相手のからだの内側に、動きを呼び起ことが出来なければなりません。からだ(=こころ)が動かされたときに、聞き手の側に、「自分に語りかけられた。」という実感(=体験)が生まれます。

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説明がくどくなってしまいました。「ことば」を語ることは「からだとことばのレッスン」の要(かなめ)です。もう少し行きつ戻りつしないと、十分に意味が浮かんでこないようです。例えるなら、ジグゾーパズルのピースをもっと細かくする必要がありそうです。

また、次回へと続きます。

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