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2015年01月17日 (土) | Edit |

2015-01-13 001-ed

「からだ(上半身)をぶら下げてください」みんなで体育授業の「前屈」の姿勢をとりました。自分はからだが硬いから駄目なんですとつぶやく声。(この姿勢)辛いです!の声も。「体育の柔軟体操みたいに、(身体を)深く曲げようとしないで下さい。それじゃぁ苦しいでしょ」。えっ、床に手をつかなきゃいけないんでしょう!「それでは力が入ってしまって、ぶら下げたことになりませんよ」ぶら下げ???

手拭いの端っこをつまんで垂れ下げ、それをヒラヒラ揺らしながら、「(手拭いは力を抜いて)ぶら下がってますよね。こんな感じです」そうか、前屈したからだをあんなふうに動かせば良いのかと、わき腹に力を込めて、体側を左右に曲げたり伸ばしたり。なんだか窮屈。「力づくになってます。上半身が(手拭いみたいに)もっと薄くて軽いつもりで動いてみてくださいね」云われるままに動いていると、(上半身の)中身がユルユルと揺れる感じ。これかな?「なかなか良いですね」(笑)

突っ張っていた上半身の力が抜けてダラリとした感じがしてきました。まさに「ぶら下がり」。揺れるに任せてブラブラしていると、あんがい気持ちが好い。けれども膝の後ろの筋(すじ)が突っ張って脚に痛みを感じます。「膝は曲げるなり伸ばすなりして、一番楽なところを探して下さい」「上半身の力が抜けたぶん、(上半身の)体重が脚の裏筋にかかって引き伸ばされ、痛みが来ることがあります」そのとおりに膝を曲げたら、脚が楽になりました。

「膝をちょっと前に曲げて、足の裏で地面の方から、からだを押し上げるようにして、からだを起こしてきます」「足~脚~胴体~頭の順番に滑らかに」。からだの中を、地面から頭の天辺へと、流れが昇って吹き抜けて行く感じです。立ちあがってみると、まだからだの内側がユルユルしています。からだのガッチリ感がなくなって、宙に浮かんでいるみたい。立っているのが楽で気持ちいい。スッキリします。このままいつまでも立っていたい気分。

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立つことも、歩くことも、坐ることも、走ることも、、。本来からだを動かすことは、とても気持ち良く楽しいものです。身体を重々しく感じたり、動くのが億劫になったり、身動きが付かない感じのときや、思い通りに身体が動かないときには、からだの中に無意識の緊張がずっしり詰まっています。緊張をほぐせば、動きの滑らかさや軽快さが戻ってきます。心もスッキリします。

ここでは、野口体操の「ぶら下がり」のうごき(体操)のレッスン模様を取りあげています。外から見た姿形は体育の授業でやる「前屈」です。けれども動きの質は全く違うものです。床に手のひらを付けようとして、前屈伸を深くするための緊張努力は必要ありません。「ぶら下がり」の姿勢で、体側を左右に揺らし、からだの緊張を弛めることを大切にして動けば、からだの柔軟性が回復します。力が抜ければ、からだの自重で筋肉が引き伸ばされ、前屈も無理なく自然に深くなっていきます。

からだの力が抜けてくると、からだの内側が、柔かくユラユラと揺れる感じが持てるようになります。体軸が通り、体幹は潤いのある太い管のように感じられてきます。その感じを消さずに、からだの内側を固めずに立っていれば、からだの強張りの取れた、いわゆる「自然体」になります。

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「ぶら下がり」から体幹の緊張を開放したまま立ちあがります。そのまま思いっきり「ら・ら・ら・らぁ~~ぁ~~」と「あ~」の声を出します。足の裏をしっかり踏みしめ、吐く息を強くしていきます。大地から風が体幹を吹き上げるように、からだ全体を空気の柱が突き抜けるように、その流れが空気を震わせ声となります。「さあ!向こうに立っている人に向かって、息を広げていくつもりでこえを出して下さい!」声が空間にあふれ出し、部屋中に響きわたります。もう声を出そうとする努力(緊張)は吹っ飛んでしまっています。自分のからだを管楽器にして、誰かがそれを力強く吹き鳴らしているような感じです。ただただ声のあふれ出るのに任せて、足を踏ん張り立ち尽くすだけ。

「はいっ!ストップ~」みんな顔を紅潮させ、ふくよかに息を弾ませています。眼を真ん丸にして、自分の「出した」否「出て来た!」声に驚いています。満面の笑顔が広がります。

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集中力はからだの緊張をほどくことで深まります。また深い集中が成立したときには、からだの強張り(=無意識の緊張)が解き放たれ、心とからだは一如となります。自分にも他者にもとらわれない、心底自由な自分の表現を楽しむ、自分が生まれます。

「声」が開かれたとき、声を出そうとからだを緊張(努力)している自分と、声の出具合を確かめコントロールしようとする自分。そのように二つに分かれたものとして感じられる、肉体と意識(身体と心)の関係。その二つの分離葛藤からくる自己の実体感は消え去ってしまいます。

「声」が開き出ているとき、意識は自分の内外に起きていること全てをクリアーに観ているだけです。意識が状況(発声器官)に手出しをすることはありません。身体には自分が声を出しているという実感(実体感・努力感)が無くなります。外に向かって、ただ声それ自体が、自ずから(自然と)湧き上がり溢れ出していくのみです(これが集中をした状態です)。心と身体と云う分離感自体がなくなってしまいます。「只、声が出ている」情況です。そのとき心(≒からだ)に在る感じ(言葉)は「自由」です。

ここでは「ら・ら・ら・らぁ~~ぁ~~」(母音「あ」の発声)という「声出し」レッスンの中で、各人はその集中力によって、無意識のうちに自己のものと見做し限界を設定してしまっていた自分(ペルソナ)の声を、その限界を超えて発声することで、自分本来の天性(生得・本有の個性)としての声を再発見しました。

「自己を超える集中」これも「からだとことばのレッスン」のキーワードです。

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声出しをやってみて、みんな、からだの隅々まで、全身の力を絞り出した感じです。ふだんのレベルを超えた集中をして、さすがにエネルギーを使い果たして、からだが開け放たれて空っぽになった感じ。「すっきりして、今夜はぐっすり眠れそうですね」(笑)

レッスン模様、また、つづきは次回。

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