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2015年01月09日 (金) | Edit |

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2001年(14年前)、北鎌倉円覚寺学生座禅会での、私(当時43才)の参禅体験です。長文になったので、三回に分けて掲載しました。参禅体験【一日目】は→こちら。参禅体験【二日目】は→こちらをご覧ください。
三日目です。本日一日を終えれば、明朝8時には開放です。

さすがに、痛みも痺れも気になりません。坐禅の姿勢をとることに、苦痛や不安はなくなりました。昨夜のことで、坐禅の集中の仕方も分かりました。けれども、その分余裕が出来たせいだと思います。「一炷」の時間が、ひどく長く感じられてきました。

一炷45分という時間が無限に引き伸ばされて行くようです。「終わりの時間はまだかまだか?」と心の中で繰り返し、線香の燃え進み具合が気になってしょうがない。もうそろそろだろうと線香を横目で見ると、まだ半分も燃えていない。これではいけないと、呼吸に注意を戻すのだけれど、すぐにまた線香に眼をやりたくなる。これでは線香依存症(時間依存症?)です。禁煙や酒断ちの、何ともいえない突き上げられるような不安感と一緒でしょう。

線香の誘惑から注意を引きはがし「息の数」(お腹)に注意を戻そうとすると、こんどは、明日からの仕事や生活の心配ごとが意識の中に膨れ上がり、親からの借金など、様々な対処法が考えに浮かんで来ます。駄目だと分かっていることが、何とかなりそうだと思えてきたりもします。

こうして考えごとに耽ってしまうと、こんどは眠気が襲ってくる。坐が崩れそうになる。姿勢をただし意識を呼吸(お腹)に戻すけれど、すぐにまた時間の経過が気になり出します。灰に埋まるようにしながらも、時間を飲み込むような顔をして、赤熱色の火を消さない、ちびた線香を見た時には、胸が詰まって苦しくて「早く終わりにして!」と叫びたいくらい。線香と妄想と眠気の無間地獄です。数息観に集中することが全くできません。

昨日までは、痺れや怒りや激痛といった直接の実感と向かい合うことで、自分の内側に向かって、手がかりとなる道筋を辿っていくことが出来ました。ところが今日は、手がかりがなくなってしまっている。猫がつるつるの傾斜面を登ろうとして、爪で宙を掻くように地面を引っ掻く感じです。掻いても掻いても斜面に手がかからず、やがて手を止めると、意識は蝋燭の燃え尽きる時間や、明日を思い悩む妄想へと、ズルズルと引きずり出され、お腹に注意を向けることができません。

そんなことを、3~4ラウンド(三~四炷)も続けていると、何かの拍子で、手がかりにヒョイと爪がかかる。手がかりに力を込めて意識を身体の内側へともぐりこませると、ようやく数息観に集中が出来る。一所懸命に「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」と呼吸の出入りを数えていると、呼吸の手ごたえが感じられて、息が深くなって行く。波に押しあげられて水面がせり上がってくるように、結跏趺坐の身体の中に力が満ちてきて、高圧で固くなった水でできた丸太ん棒のように、天地に向かって身体の芯がつき立ちます。

ようやくひと山越えれば、ふたたび奈落へ落ちる。ゼロ地点にもどされ、また地面に爪を立てて手がかりを探す。次の数ラウンドへ。また無間地獄の長い長い格闘の始まりです。もう終わらせてほしい。勘弁してほしい。でも抜け道がない。手をかけ足を踏み出し、山を登るしかない。その先に何が見えるか、何が待っているのかは、全く考えられないのですが。

3日目は、こんなことを朝から夕方までの半日近く、坐禅のたびに繰り返していました。日暮れ時、まだ明るさの残る中で、何とか呼吸を掴まえようと努力を繰り返していた時です。

ふたたび坐身に力が満ちて来ました。呼吸に連れて、箍(たが)を締めつけた様に、身体の芯が太くがっしりと固まっていき天地に突き抜けます。いつの間にか日が暮れて堂内は闇に満たされていました。

坐身にガッチリと力が満ち切ると同時に「カンカンカンカン…」と板木を打つ澄んだ音が響きだしました。山上の専門道場から夕飯の時を知らせる合図です。

境内の参道は樹木に囲まれた谷筋に沿って、弓なりに専門道場へと続いています。こちらの居士林(禅堂)からは、坂道を500mほど登った山の中腹に専門道場があります。そこから槌打つ響きが、木立や谷間の起伏に木霊しながら参道を駆け下りてきました。

やがて、木霊する響きが白い一筋の光芒に見えてきました。つぎつぎと波濤をもたげ参道の石畳を滑り降りていきます。夕闇に黒く浮かび上がる木立に沿って、響きは白い光のしぶきを撥ね散らし、光の帯となり、谷間をこちらへ向かって下りてくるのです。(不思議ですが、体験したまを書きます)

もちろん坐禅を組んでいる室内からは、境内を見ることは出来ません。私は考える間もなく、とつぜん眼の前にひらけた美しい光景に、ただただうっとりと魅入っていました。視野の中心は坐禅を組んでいるこの場にあるのですが、坐禅をしている自分の身体も室内の景色も消し飛んでしまっています。敢えて言えば、透明人間になってしまい、周りを遮るものも無くなってしまった感じです。

谷を下る光芒がこちらへ届きそうになりました。山の中腹からこちらへと、光の奔流が流れ着くその時です。その流れを遡るように、こんどはこちらからも光の流れが上流を目指してはしりだしました。まるで光を帯びた小魚の群れが波を蹴立てるように、流れの急な光の渓流を昇っていきます。光の群れが水面を滑るように、板木を槌打つ専門道場を目指して遡っていきました。

ところが、光の群れは専門道場を乗り越え、勢いのままに山の中腹を山頂へと昇っていきます。光の帯となって、夕闇に浮かぶ山の端のシルエットを乗り越え、上空へと僅かにはみ出したところで、光はピタリと止まり消えてしまいました。その先には何もありません。向こうに側には、漆黒の虚無の闇があるだけです。

闇のこちら側に、円い鏡の中に取り込まれるようにして、円覚寺の境内とその背景の山並みが広がっています。世界は円空に囲われたこの空間だけしか在りません。「ああこれが自分なんだ!」と云う言葉が浮かんできました。この円空に収められた空間、円覚寺の境内が、その世界が、そのまま自分なのだという感じです。

山の端までの広さを確かめ「私の大きさはこんなものなのか!」と一瞬不満に思うと、その光景が消えて行きましたました。

間もなく、意識は坐禅の姿勢に帰り、こんどは身体の内側に注意を向けていました。結跏趺坐をした姿が、身体の輪郭に沿って中空になっていて、その内側を覗き込んでいる感じです。

意識は居士林の庭から円覚寺の参道に抜ける道を辿っていました。庭の植え込みに沿って散策をしました。自分自身の実体(感)は無いのですが、普段の散歩のように、境内の小道を自由に歩き回ることが出来ます。その散策の光景が、自分の坐した輪郭の中にありました。「(世界の)全部が自分の中にある!」と云う言葉が浮かびました。普段、道を歩くときの感じと何も変らず、周りの景色も背後に過ぎていきます。ただし眼の前に展開する世界が、視界の向こう側にでは無くて、坐っている自分の内側で体験されているのです。

やがて吐き出す息が、涙とともに「ありがとうございます!ありがとうございます!・・・!」という言葉となって、身体の奥底から溢れだしました。禅堂の中で他の参禅者に囲まれて座禅を組んでいる自分に戻っていました。嬉しさが身体全体を満たし、結跏趺坐のまま息が弾み、とめどなく涙が流れ出ていました。

そのあと、夕食後の参禅では、「経行」といって、円覚寺境内を列になって早足で巡り歩きました。見上げる木立の間に、ぽっかりと満月がかかっていました。先の体験を誰に告げたらよいのか困っていた私は、お月様を見つめ、無言でお礼を述べていました。

就寝前の最後の坐禅を終えたあとは、阿弥陀様の納められている、小さなお堂に集合させられました。もうひと踏ん張り、夜坐に向かうと指示されてお堂に入ったのですが、そこには茶菓子が用意されていて、砕けた雰囲気が漂っていました。スタッフをしていた、したり顔の学生さんたちが、構えを解いて穏やかな表情を見せています。

拍子抜けとはこのことでしょう。何も知らない私は、薄墨色の世界からいきなり、カラフルな日常的な人付き合いの場に戻されたよう。言葉を失いあたふたとするばかりです。打ち上げパーティー(茶話会)です。もう、坐禅の話などはどこかへ行ってしまい、楽しげに日常の話題に言葉を弾ませている様子。それまで沈黙を守っていた坐禅会指導担当の僧侶も、自分が地方のお寺の跡取りでその修行のために円覚寺に来ていることなどを、気安くほかの参禅者に話しています。

私は夕方の体験への説明と承認を求めていたのだと思います。けれどもそんな話を持ち出す雰囲気も無く、ただ息を潜め黙ってその時間を過ごしました。

      *         *         *

翌朝4日目、早朝の坐禅を終え朝飯の粥をすすり、夜が明けました。帰宅の荷物を纏め、禅堂の坐に着き、足立大心老師を上座に迎えて体験報告会です。

参加者全員が順番に、坐禅会への感謝の意を述べていきます。私は「大変貴重な体験の機会をありがとうございました。」と一言、涙に胸を詰まらせながら感謝を告げました。老師は私の体験を見知っているかのように「良かったですね」とにこやかに頷いてくれました。

8時には「(体験の意味を老師に)もう少し聞いておけば良かったかな?」と、名残を惜しみながらも円覚寺の山門を踏み出しました。北鎌倉駅前から、鶴岡八幡宮を抜け、鎌倉駅へと散歩です。道行く光景が、鮮やかで清々しく感じます。駅前で喫茶店を探し美味しい珈琲で一服。一区切りを終えた心持ちで、東京へと向かいました。
「私自身のマインフルネス体験って何だろうか?ともかく自身の体験を文章にすることで、整理し直してみよう!」と、先日掲載した『内観体験』→こちら と、今回の『参禅体験』を書き出してみました。いざブログに掲載すことを考えていると、なんだかこれは Coming out かも知れないなと思えてきます。でもこの二つの体験は、『からだとことばのレッスン』まっしぐらの私にとっては、それぞれ「守」・「破」の節目となる、大切な体験のように思えてきます。

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