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2015年01月07日 (水) | Edit |

2014-12-29 008-ed

二日目になりました。

坐禅会では、「経行」といって境内を列になって歩く修業、「作務」という掃除の時間、禅の作法に則った食事、老師の訓話など、坐禅以外のプログラムも入ります。それらを次々にキビキビとこなしていかなければなりません。

起床も然りで、起床の合図(鐘が鳴らされます)で、布団を飛び出し、寝具を畳み、着替えと寝床回りの片づけ。柄杓一杯の水で歯磨きと洗面をこなす。手洗いを済まし、定位置に座布団を敷き正座。線香に灯がともされ、鐘の音で坐禅を組み、また「ひとつ」「ふたつ」・・・と息を数えることをくり返します。

私は、寝覚めのぼんやりしたまま坐を組み、朝の三炷が過ぎていきます。やがて板木を叩く音が、境内から堂内へカンカンカンと響き渡ります。朝飯の合図です。飯台を準備し、禅の作法に則って、粥と汁と香の物を食し、お茶を頂きます。

そのほか、観光客の参拝開始前に円覚寺境内の掃き掃除。開門してからは、草むしりや土運び、畑仕事。春の連休を楽しむ観光客が溢れるなかで花壇の手入れ。老師の講話を聴きに広い境内を列を成して移動。観光客の人混みを縫って講堂へ。お釈迦さまの骨が収めてあるという舎利堂の見学。雲水(正式の修行僧)の起居する専門道場へ。

これらは、坐禅の合間を縫ってのことですが、観光客には入ることのできない場所へも案内してもらいました。初夏の日差しをあびて心地よい気候なのですが、心の中に硬い石ころを飲み込んでいるような気分が常にあり、せっかくの機会を楽しむことは出来ませんでした。

禅堂では相変わらず、坐禅を組んで息を数えることをくり返します。二日目になって、ようやく脚の痺れにも慣れ、昨夜のことで呼吸法の手がかりを得ることが出来ました。半跏趺坐(片脚を腿に乗せかける胡坐)から結跏趺坐(両脚を交差させる坐法)へと脚の組み方を変えられるようになりました。

けれども、数息観(息をを数える行法)は進歩がありません。たかだか呼吸を10回数えるだけのことなのに、それが出来ない。息をゆっくり深く吐いていくので、一炷(約45分)の間の呼吸数は300回くらいだと思います。「ひとつ」「ふたつ」・・・「ここのつ」「とお」で10回ですから、これを30回繰り返せば一炷がお仕舞です。

「ひとつ」「ふたつ」までは容易に、吐く息と吸う息をお腹で数えることが出来るのですが、「みっつ」くらいからあやふやになって来る。「むっつ」「ななつ」になると、いくつまで数えたか分からなくなり混乱してきます。集中できない。一応「とお」までは、済ませるのですが、どこかで数字を数え間違えているかもしれない。自信が持てません。坐禅会中を通して、10回連続で間違えなく数えられたのは、一回もないかもしれません。

そのうえ、今日の足の痛みようが昨日とは違います。昨晩同様に坐を組んで呼吸を繰り返していると下腹に力が満ちてくるのですが、それにつれて結跏趺坐で交差している左右の脚の、皮膚の薄い脛骨(弁慶の泣き所)と脛骨とががっちり噛み合わされ、火が着くような痛みが、腹圧の変化と伴にやってきました。足首がもげそうな怖しさも高まってきます。骨格の全ての関節が万力で締め上げられ、その力が交差した脛骨の一点に集約される感じです。肉体と云うより、骨(骨格)が坐禅をしているような気持ちがしてきて、坐禅のラウンドを繰り返すごとに、脛骨を締め上げる力が増し、烈火のような痛みが弁慶の泣きどころを襲います。

坐禅から開放される、午睡(ひるね)の時間、禅堂の窓辺に差し込む陽光と、参拝客が散策を楽むさざめきを聞きながら、どろりとした闇を纏った病人のように、道場内の布団にごろ寝をしていました。

夜のことだと思います。夕食後の坐禅です。照明を落とした道場の中で脚を組み、呼吸を数え始めました。もうあれこれ思い悩んだり考える余地はなくなっていて、その分意識はクリアーでした。かと言って、数息観(呼吸を数える)のほうは相変わらずつっかえつっかえで、進展がありません。

坐禅を開始して10分くらい、息が深くなるに連れて、痺れとともに、またもや交差した脛が火がついたように痛み出します。足首の折れそうな痛みも。それでも致し方なく、呼吸を深くしていきながら、痛みから注意を逸らすように、息を数えることに集中していました。

そのとき、なにかこれまでと違う手ごたえがありました。呼吸をするごとに、息の入る余地がなくなり、呼気は吐いている感じが持てない。おう吐するとき、胃の内容物が空になっていて、吐こうとしても吐き出せない。それでも気持ち悪くて、全身の力を込めて吐きだそうとするような。そんな感じです。

息は微かになり、息を吐いているのかいないのか良く分からないままに、長く細く押し出すように吐く。呼吸を数えながら、グイグイ息を吐き切っていくと、骨格が締め上げられ身体は地面に打ち込まれた丸太のよう。短い吸気とともに、身体の芯が高圧高密度になり、全身がギュウギュウガチガチに固まっていく。何ともいえない心地よさがある。あれだけ苦しみ抜いていた脚の痛みがなくなってしまった。と云うか、痛みも痺れもあるのですが、それが自分から離れてしまっている。「痛みは自分に属さないんだ!」その瞬間に浮かんだ言葉です。

高度の緊張は、その後、潮が引くように静かになって行きました。さらに二炷を済まし、二日目最後の坐禅を終了。夜坐(修行者は夜通し自主的に坐禅をするそうです)の話があり、就寝です。
<三日目に続く>
一日目の参禅体験はこちらです。

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