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2014年08月11日 (月) | Edit |

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ワークショップに初めて参加した人にとって、ちょっと不思議に思われることがあると思うので、一筆。

それは、私どものレッスンの場は、何かを得るための場ではないということ。
前回の定例会でも、初参加の方が「自分の問題を解決するための方法を得て帰れると思って参加したが・・・??」と云われた。

ふつうは講座に参加するということは、例えば腰痛の人は、腰痛を直すための方法、、、体操であったり、筋トレだったり、自分の健康への効果をもたらす技法や知識を求めて参加する。心が辛ければ、それを癒すための方法や知見を求めて、講座に足を運ぶ。知識欲がある人は、その満足を求めて講演や講習に参加する、世渡りのスキルを求めて・・・、となる。

講座やワークショップに参加する人は、何か自分に必要なものを求めてその場に足を運ぶ。そして講師の側は、参加者の求め(ニーズと云うらしい)に応じて、必要な技能や技法、知識を提供する。そして参加者はそれを得て持ち帰り満足する。
たぶん、これが非常に一般的な講座の意味であろう。

以前私は「何かを身につけたり、知識を得て帰ろうとしないでください。」と、レッスンの開始時に話しをしていた。「そういわれても、でも?」と思って当然のことだろう。そもそもみんな、何か自分のためになると思ってワークショップに足を運ぶのだから、当然のことだ。

(ちょっと屁理屈みたいになるかも知れないが、お許し下さい。)

私の基本的な考えは「全て必要なものは、自分の外部や他者の手元にではなくて、自分の中に備わっているよ。」ということ。健康になりたければ、健康になる働きは自分の中にある。肩こりを直したければ、それを直す働きは、自分の中にある。表現力を身につけたいというけれど、それも本来一人一人が持っていること。他者とコミュニケーションする力も。そこから考えると問題は、そのような働きや力が、どうすれば十分により良く働くかということになる。

さらに、そのような働きが十分に活躍するのを妨げているのは「何か?」「誰か?」ということになる。
それは、自分の心や身体に対する生半可な理解や、健康神話であったり、常識に照らしてしか自分のことが見れないせいだったりする。

実は、自分がこれこそが正しい、こうしなければならない、これこそが素晴らしい、信頼する他者や権威者がこう云ったからと、旗頭を掲げ自分が自分であるためにしがみついている価値観や常識、それが自分自身が元来持っている、自分自身を育て養う働きや力の活躍を妨害している。

大雑把に言えば、私達のレッスンの場では、為になる答えや知識を教えない。答え(をだす力)は一人一人自分の中にあるのだから。私達にできることは、参加された一人一人の人が、それを発見し直すお手伝いをすること。

だから、何にも教えない。むしろその人の持っている、心の覆いを剥ぎ取って、その人が自分自身と裸のお付き合いをすることをお勧めする。だから、レッスンが終わると、スッキリしてあけっぴろげの表情になって、みんな帰って行く。でも、家に帰ってみると、何も身についていないことに気がつく。あのワークショップは何だったのか?となる。繰り返せば、少しずつだけど、自分の中から新たに育ってくるものがあることを、感じられるようになって来るけどね。

様々なスキルやテクニック、何々教室や治療院を渉猟して歩くことにくたびれた人には、発見に満ちたワークになるかも知れません(笑)

それでも私も、人情ってやつで、ちょっとはお土産にと、こんなことしてみたらぐらいのことは、ついつい手渡したりしてしまう。良いんだか悪いんだか分からないけど。ホントはそんなのいらないのかもしれないけど。まあ、一人一人に合わせた、その人用の宿題だけれど。とくに「脱力」の体操をね。
今週末は、大分県で二つのワークショップ。演劇上演ワークショップと、「脱力」ワークショップ。こんなこと書いても良いのかな?参加してくれる人が、心配にならないかな?とか一応考えたけど、思いつくまま書きだしてしまった。大分の皆さまご寛容のほど、宜しくお願いします。
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