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2014年06月21日 (土) | Edit |

2014-06-17 006ed-blg

先日、あるカフェでミーティングに参加しました。

話し合いが一通り済んだ後で80代の男性Sさんが、「ミーティングをしているときに室内の反響音が耳に響いて仕方がない。耳障りで他の人の発言が聞き取れない」と、まるで自分の耳が変になってしまったのではないかと云うように、たいへん不安そうに、皆に訴えました。

他の人達は60才以下もしくは前後で老齢にはまだ届かない人ばかり。自分たちには、話しをしているとき全く気にならないと云う。「それは齢のせい」「老化で耳がおかしくなっている」「仕方ない」と互いに無言の了解のもよう。老化に伴う異常事態と捉えているようです。

実は私も、苦にするほどではないけれど、室内の響きが気になっていて、人の発言を聞き分けようと、聴きづらい時には身を乗り出して相手の言葉に耳を傾けていました。思えば他の人達は椅子に腰かけたまま、身動きすることなくミーティングをしていました。

「私も反響が気になっていました。きっと脳の選択能力の問題だと思います。普通、脳は聞きたい情報にチャンネルを合わせて、音声を取捨します。話しを聞いているときには相手の言葉以外の音声や環境音を、脳が自動的に切り捨てている分けです。私は、舞台(演出)の仕事をしているので、場の環境音に注意を払う習慣があります。きっとSさんも、老化でそのような選択能力が低下しているだけで、室内の反響が気になること自体は、異常ではないと思います。」

皆さん、納得してくれたようです。とくにSさんご自身は、自分が異常では無かったのだと安心してくれて、「私のような年寄りでも安心して話せるように、カフェの壁に吸音処理をしよう。それがこの場を利用している人達に居心地の良い場所にするために必要だろう。」と言ってくれました。(因みにこの場は地域の人が集うコミュニティーカフェです。)

(マイクで録音をすると、人の声だけでなく、周囲の総ての音をフラットに拾います。脳の選択能力が低下するということは、マイクのようにすべての環境音がそのまま耳に入ってくることでしょう。無い音が聞こえる訳ではなく、全てがいっしょくたに聞こえてくるのです。騒音は騒音のままに、鳥の声は鳥の声のままに、吹き渡る風の音も全てが聞こえるということは、普段は聞こえないような声までが意識の中に進入してきます。心に染みる声音ならば良いのですが、耳障りで聞きたくない音まで聞こえてくるわけです。脳の機能の低下であっても幻聴のような異常ではありません。)

この体験のあと、私自身はいろいろ考えさせられました。

話し合いのとき、環境音を選択して聴いているということは、人の音声のうちの文字(言語)情報以外は自動的に切り捨てられています。これは言葉(意味情報)が主流となるコミュニケーションの場では、言葉以前のコミュニケーション世界が無自覚に切り捨てられてしまっているということです。

私が「からだとことばのレッスン」と云うときの「からだ」とは、この言葉以前のコミュニケーションの主体を示しています。「ことば」はこの意味での「からだ」の延長線上に生みだされる表現全般です。

例えば、発語に伴う息遣い。息がはずんでいる、息が浅い、のどが詰まっている、息苦しさ。声の抑揚、明るさ、柔らかさ、温かさ、堅苦しさ、頼りなさ、暗さ。身体の震え、微妙な姿勢の変化。言葉にならない、そのような情報を含めた「ことば」による表現とコミュニケーションの問題をさぐるのが私の仕事です。

ところが、ことミーティングの場では、それらが全く無視されてしまい、記号としての言葉の意味のみが尊重される。

「話しかけのレッスン」というワークがあります。5~6名の人が聞き手になり、話しかけ手になった人がその内の一人を選んで話しかけます。

聞き手の人は、自分に話しかけられた感じがしたら挙手をします。聞き手の人にはあらかじめ、話し手の意図や言葉の意味を汲まず、判断を差し挟むことなく、聞こえたままに反応することを求めます。

先ずほとんど、手が挙がることはありません。関係のない人が手を挙げたり、声があらぬ方向へ通り抜けていったりと、対象者に話しかけることが成立しません。

私達は普段、他者の言葉を、その意図や言葉の意味内容を汲んで、自分に向けられたものであると判断している。そこでは、相手の声(言葉)がこちらに触れてくる、手ごたえや心の反応は切り捨てられています。

言葉による指示やそれに対する理解力を求めることが、当然のことになっています。これはコンピューター同様、記号によって組み立てられた情報の交換が、話し言葉になってしまっているということです。

文化の進展にともなって、「言葉(意味言語)の世界」が主流になっています。それに対して私は「からだことばの世界」を発信していきたい。言葉によって切り分け切り捨てられた世界に、もう一度、価値を見出したいと思いを深くしています。

老人介護や子供の教育の現場では、整然とした知識の「言葉」よりも、「からだ」と切り離されることのない、生々しい「いのち」の胎動(リズム)を孕む「ことば」こそ、求めれられているのではないでしょうか。

人と人との対話を、言葉の意味のやりとりのみに限定し、それを当然とすることは、語彙や知識の量的な蓄えや言葉のテクニックにたけた人のみに優位となる、閉じたコミュニティーを作ることになります。当然、言葉の不得手な人にとってはそのコミュニティーに参加したいと思っても言葉の壁が立ちはだかります。

言葉の壁のこちら側に弱者を引き入れるのではなく、言葉の壁を崩すことの方が大切な気がしてなりません。

世間の人は「言葉(意味言語)の世界」、私は「からだことばの世界」の住人なのだとあらためて、考えさせられました。

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