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2014年04月07日 (月) | Edit |

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 先日、新宿駅西口ロータリーに面した喫茶店から、歩道を行く大勢の人々を眺めていた。

 過ぎ去る人々の身体の情況に眼をやると、皆、重心が胸から頭の辺りにある。意識が胸から上に揚がっていて、胸から下は自らの意識の圏内に入っていない。意識が身体を上方に引き揚げるようにして歩いている。

 これは、地上から1.5m前後の高さのところに、自分(意識)が置かれていることになる。胸部から下方には意識が通っていないのだから、非常に不安定な状態である。段差にでも躓けば、高みから落下するようにして、転倒するはずである。

 これでは心も不安定になる。高所から転倒する不安のために、意識は常時緊張してアンテナを張っていなければならない。 そのため、都会を歩く人々の表情は硬い。

 「地に足をつけて」という言葉があるが、その逆の「浮ついて」いる身体の在り様が、普通(特殊ではなく)になってしまっているようだ。

 私は、都会の雑踏を歩くと草臥れる。重心が高いということは、呼吸もそれにつれて上擦って浅くせわしくなっている。身体の状態や生理は、身体から身体へと伝染する。多くの人が、重心が浮ついて息の浅い状態を共有してしまっている中に入り、自分の心身の安定を保つことは、困難を伴う。

 それでも私は雑踏を歩きながら、都会の喧騒に意識をとられて頭がごちゃごちゃと回転し始めると、意識を足もとにおろし大地に気持ちを向けながら呼吸を整える。

 頭が高速回転し始める原因は、不安である。不安が無ければ、頭は休まり視野がひらける。地に足をつけて、せめて自分の身体の安定を取り戻すことで、都会の狂騒(狂躁)に巻き込まれずに、自分を保っている。都会の良さも見えて来る。

 私は数年前まで、西新宿に芝居小屋兼レッスン場を四半世紀にわたって経営していた。自分が演劇(からだ・こえ・ことばの探求)のみに打ち込むための場であった。

 いま思えばそこでは毎回、稽古やワークショップの時間の前半を、必ず野口体操の時間としていた。緊張で上擦った身体を解きほぐし、重心を地に降ろし、身体全体の感覚(意識)を回復する時間だった。そこを経てレッスンへの深い集中が初めて可能になる。

 当時はその意味を考えて説明する余裕もなく走り続けていたが、いまは、少しばかり説明も必要になって来た。新たに「感性の体操」と名づけたのは、この前半のワークである。

 「地に足をつけた」歩みを、自らの身体で具体的に取り戻していくことで、演劇のみならず、人との係わりや仕事や生活や表現の場の中で、一人一人の人が新たな出発点と深い集中を見出すことが可能になると、私は考えている。「感性の体操」の目指すところである。

 私が演劇以外の場に関わる理由はここにある。今あるがままの状況を、あるがままに内側から変えていく可能性をみんなに知って欲しいのである。浮ついた歩みに気付き、地に足をつけて歩むことへの実感を回復することで。
 
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