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2014年01月27日 (月) | Edit |

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たとえば「をだすのは誰か?」と突きつめていく。

私たちはふだん自分がしゃべっているときに「」をだしているのは自分だと、何も考えることなく当然のこととしている。

上記の問いは、これを疑うことになる。「誰か?」というのは、難しい言葉になるが、行動の主体という。(この場合は「しゃべる」が行動、主体が自分)

何をわけのわからないことをと思って当然だけれど、私のようにをあつかう仕事をしている者や、何らかの理由で自分のを失った者、のことで不自由をしている者にとっては、ここのところが肝腎なことになる。

に不自由を感じたことのない人は、自分の思い(意識)どおりに声がでるものだから、声を出すのは自分だと思っている。逆に声を出さずにいるのも自分であることに疑いはないだろう。つまり声をだしたりださなかったりするのは自分である。

さらに発声器官と神経の関係も研究が進んでいるものだから、意識(=自分)の指令に従って音声がでる仕組みも解明されている。いずれにしても声をだすのは自分であることに疑いはなさそうである。音響機器を扱うように意識がスイッチを入れたり切ったりボリュ-ムをひねって増減することで、声がでていく。

これに対して、私がレッスン中に言葉にするのが、「声をだすのは声である」「声じたいが発声器官をつかって声をだす」「声じたいが自分で出たがっている」などである。常識から考えればわけのわからないことかもしれないが、実際に声がでない人に対しては、この考え方にもとづいて指導をすると声がでてくる。

常識にのっとって「声をだすのは自分」という発想に乗っかるとき、自分の思うとおりに声をだそうと努力を始める。努力=緊張である。喉に力を入れたり、大きく口を開けたり、息を大きく吸って胸をはりあげたり、顎をつきあげたり、腹に力を込めたり。。。さらには自分の体内の響きの強さに注意を奪われ、声のむかう対象を意識することが出来なくなる。閉塞感に襲われることさえある。

「声じたいが出たがっている」と考えるとき、まず声がでるために必要なことは、声がでやすい身体の環境を用意してあげることである。喉(声帯)や胸の緊張をゆるめ、さらにからだ全体にわたって、声が出ていくことを妨げる緊張を解除して行く(呼吸とからだの関係も含む)。もう一つは、声がどこに行こうとしているのか、他者なり対象物なりそれを意識しそこに心を向けることである。

このとき声自体が、自分のからだの中から対象にむかって流れでる。そして面白いことに良く声がでているときには、自分では声がでている、だしているという実感がないことが多い。自分が声をだしているという実感がない、無自覚な責任感からくる重責からの開放感(自由)がある。

逆に、自分で声をだしているという実感があるときには、思うように声は相手に届いていかない。

私は、こんな体験を重ねるうちに、自分の意識的な努力(緊張)によって目的を達成するという考えを信じなくなってきた。立ったり座ったり歩いたり走ったり、すべての人間行動全般についてが然りである。意識し考えることですら。

私にとって「生きている(行動する)しているのは誰か?」の答えは「自分」(意識)ではない。無意識といっても仏・神・魂といっても何かピンと来ないので、私はその「誰か」(行動主体)をひらがなで「からだ」とよんでいる。

そして「からだ」主体の発想のもとに行われる人間行動は、立ったり歩いたりという単純なことから生活や仕事全般に至るまで、気持ちよく明るい出来事となり、苦難さえ自分を育てる糧となる。禅でいうところの「日日是好日」とは、このことであろう。

自意識の不全感は、自分(意識)主体から「からだ」主体への路線変更へのチャンスである。「自分が生きている」(意識主体)ではなく「からだ」によって「自分が生かされている」ことを認めるとき、自由の意味が初めてわかるのだろう。

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