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2020年06月27日 (土) | Edit |
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久しぶりに都内に出た。3ヶ月ぶり!!

午前11時前の山手線、ソーシャルディスタンスな電車のなか、みんな頭をカチンカチンに緊張させている。
お凸(でこ)に石っコロをはめ込んでいるような塩梅だ。
いつでも頭突きで勝負ができそうな、ヘッドライトならぬヘッドストーン(石頭)。
斜め向こうに坐った女性が首をクリクリ回してる。
石ころ頭じゃ首や肩も突っ張ることだろう。
あっちの外人さんも肩首クリクリだ。

こりゃキツイ。

身体から頭へと意識を引き上げてしまって、胸から下の身体(胴体・脚腰・足)は生彩が無い。動的でもない。休んでダラッとしていることもない。緊張感というのも違う。静かに動きを止めている!なんだかみんな同じ足に見えてくる。

みんなどこに行ったのかと尋ねれば、眼とお凸とスマホの三角形。そこだけに意識がチラチラと目まぐるしく点灯している。首から下は一律に無表情、活気も減ったくれも在ったもんではない。

コロナ騒ぎのドサクサの中で、いつの間にやら「からだ」の新たなスタンダードスタイル(存在イメージ)が完成してしまったのだろうか?

マジンガーZの操縦席(ホバーパイルダー)に乗り込んで、自分(自我意識)は戦闘ロボットの眉間の窓から状況を見降ろしている。前頭葉のところに鎮座して、スマホ越しに状況をモニターしている、とも言える。これが新たな人間存在のスタンダード・モデルか?コロナで隙間を空けて坐る大勢の姿が、外見は違っても、みんな一律の同様な印象だ。マスクは鉄人28号か?人間がモバイル端末化しているとも見えてくる。

座席に腰かける「からだ」は、戦闘から離脱してスイッチをオフにした「自我意識」の『乗り物』だ。駅に着けばスイッチをONにして電車のドアに向かい、ホームに降りて行く。残った数体は突然に開け放たれた座席に残り、眼を瞬たたせながらキョロキョロと視線のやり場に困っている。

私は長年、意識と身体(こころとからだ)の二元分離とそこに生じる対立を問題と見て、その統合を模索してきた(からだとことばのレッスン)のであるが、この時代ここに来て、とうとう意識(脳)主導の人間観、意識の指揮によってその人間行動(からだ)が成されるという理念が現実化され、世間のスタンダード化されてしまったのだ!と、一人愕然として息を呑んでいた。

こうなると、知識(情報)が一番の価値を持つものとなる。不安や困難を乗り越えるための知識(ノウハウ)が売り物になる。(防災グッズやノウハウが良く売れるのと一緒だ)

「からだ」と「心」の深み、その一如のところに成立する安心感と幸福感は無視される。人間は仮の安心と虚仮の幸福を求めて、永遠に逍遥し知識を次から次へと消費し続けることになる。

生命の主体は身体である。脳は身体を通じて経験を記憶する。脳は身体の体験を通じて繰り返し新たに更新されて、心の豊かさが育てられる。知識はそれ自体に知識を育てる働きを持たない。現実の持つ多様性と、固定しがちな自我との違和や葛藤衝突によって、自我は豊かさを獲得して行く。自我が乗りこえられた時の幸福感は、演劇の舞台を終えたときに体験できる。それは様々な表現活動や宗教体験によっても、齎されるものだろう。

さてさて、一旦出来上がってしまったスタンダードを乗りこえるのは大変なことだが、まあ生きものとしては、そこにしか解決の道は無いように思う。ぼちぼち歩き続けるつもりなので、ご協力をよろしくお願いいたしまする。

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