FC2ブログ
2020年02月28日 (金) | Edit |
ゴッホ-「糸杉」400-250-ed

日常の縛りを離れる。
病とは、社会との関係の中にある。
セラピストや施術者の目指すところは、世間への適応である。
社会改革を謳ったところで、それも世間の中の出来事である。

理解の限定から離れること。
求められるのは、集中である。脳化された自己をその壁の向こうへと差し向ける。脳や意識の集中ではない。からだの集中である。

地に足を着けることの、本当の成り立ちと、成り立っているつもりの違い。

意識的な集中は、注意を意識的に差し向けることで、対象との間に「差し向けようとする」壁を生み出してしまう。脳内のイメージが、集中しようとする行為に差し向けようとする既定の操作を課してしまう。

「集中する」ことと「集中しようとする」こと。後者は「~しよう」とする意図が入ることで、意識が自己を指導する。「Doing」である。そのため意識・自己・対象者(物)の三者が対立した関係となる。互いを別々に仕切る壁が立つ。
「集中する」は集中そのものになる。集中そのものとして存在する。存在=「Being」の成立である。自己と対象の隔てが無くなる。区別無く、意識はそれを眺めるのみ。常識の規定に基づく手出しはしない。


例えば「立つ」という存在=「Being」の成り立ちのためには、立っている積もりから、そのつもり=「Doing」を徹底的に排除して行かねばならない。立とうとする意識的な努力=緊張を解除して行かなければならない。


集中しようとすると、集中しようとする自分が出てくる。集中とは解放である。集中とは対象を自分の方へと引っ括り、意識に従属させることではない。それでは奴隷化だ。集中とは、自己が対象によって侵略され、突き崩されること。意志による対象の従属化を離れて、自己が失われ、自己の内部から突き動かされるままに振舞うことだ。

「Being」とは存在である。じっと佇むのが「Being」ではない。内的な動きに満ち、それは外的な世界との交流を生み出し、意識の思い込みに支配されることのない、二度と繰り返すことの無い、新たに生まれ続ける、或いは死に続ける変転自在の自己にまみえることだ。尽きることの無い泉の発見である。

存在自ら踊り歌い他者との関係に飛び込んで行くのが「Being」である。留まることの無い運動である。

「Doing」は有限であるから、意識で捉えることが出来る。
「Being」は無限運動である。

そして、集中を扱うものは、日常という枠を離れた地点に立たなければならない。非日常という、世間や社会の繋がりの外に出なくてはならない。社会に通用する者であっては、意味が無い。社会化することは、いのちを放棄する行為である。根底を生す自由が奪われる。

自由とは既定の自己像或いは世界観に縛られることの無い、可能性としての自己=世界の発見である。留まることの無い移り変わりの自己=死に変わり生まれ変わりする自己。神仏に保証された自己である。

「Being」は目指すものでは無い。やって来るものである。自己に向かって来る人生に真っ向から挑み続けることの他、「Being」に至る方法は無い。

関連記事