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2018年09月21日 (金) | Edit |
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しばらく言葉を失い、沖縄三線に没頭し、沈黙を守っていました。
ブログの記事は5月12日(土)で止っています。変化を待つときだったようです。
これまでのブログへの投稿は、自分自身を整理するためのものだったように思えてきました。
そしてこの沈黙の期間に、その整理した自分自身を捨ててしまったようです。片付けたのですね。
8月になってFacebookへのつぶやきが、ぼちぼち復活してきています。並べて読んでみると面白いので、ブログを見てくれている方や、人間と演劇研究所Facebookページをご覧いただいている人たちにも見てもらおうと思いブログに纏めてみました。
私の個人的なつぶやきですので、読者の方にはチンプンカンプンかも知れませんが、ご笑覧いただければと思います。
以下。

◆去年の夏までは「暑い!」とこぼすと余計に暑苦しくなるので黙っていたが、さすがに今年はそうも言っていられない。声を大にして「暑い熱ぃ~!」「ビ~ル~♪」(笑)-8/1

◆工夫や努力が足りないからではなくて、考えて工夫や努力をするせいで、出来なくなっていることがある。そうすると楽しくない。(三線練習中)-8/15

◆「感じよう」とすると、「感じようとする自分」が出てくる。
この自分が曲者! -8/22

◆初めての眼で見てみると、いつもの町並みが、ヤケに輝いてみえる。なんだかそれだけで得した気分~♪ -8/31

◆もっとも難関の蓋が空いたようだ!これで生き方変わるかも。自由~♪ -9/2

◆声は「届く」のである。「届ける」のではない。心も同じ。心は「表れる」のであって、「表す」のではない。「届けよう」「表そう」とする努力が、声や心の現れを妨げる。厄介な矛盾。「声そのまま、心そのまま」と、人工(細工)を加えた「声、心」。自由とは「そのまま」であること。ほかに何もいらない。(自戒!) -9/11

◆知識は「ありのまま」を見えなくする。世を渡るに知識は便利なものである。けれども知識は「ありのまま」をも、知識の中に捕り込もうとする。本末転倒。「ありのまま」とは、母から子へと世代を超え時代を超えて繰り返し受け継がれてきた偉大な宝庫=「知恵」である。ソクラテスは「無知の知」という。老子道徳教では「混沌」という。仏教では「般若の知恵」というのだろう。「知恵」を欠いた「知識」は人を幸せにはしない。教育とは本来、「ありのまま」をお互いに手渡し確かめ合う作業ではないか?知識技能の伝授は二の次で良いのだ。 -9/14

◆レッスンでのこと。「頭で分かろうとしなしないで下さい。からだからからだに伝わるものを大切にして下さい。」「理解しようと努力するとしかめっ面になります。(意識が)からだに蓋をしてしまいます。ポカンとして、自分を空っぽにして見ていて下さい。」意識を通さずに(介さずに)「からだ」から「からだ」へと直接に伝わるものがあります。そういう「学び」があるのです。そうしなければ学べないことがあるのです。 -9/15

◆私に三線を奏でさせ、唄を歌わせる「誰か」が居る。それを私は神や仏とは呼びたくない。名を付けた途端に「誰か」は、「誰か」ではない私や人間の所有物となる。敢えて呼ぶなら「自然」と名付けようか、私と身一つの「誰か」を。だから「自然」がより良き音色を奏でてくれるように、三線の音色と私の声に、私の演奏と歌はこれで良いのかと、繰り返し奏でては問いかける。
(からだとことばのレッスンではこの「誰か」をあるいは「何か」を『からだ』と呼びます。「いのち」とも。) -9/17

◆空っぽにしようとイメージしてもだめなんだなぁ~。元来、誰もが空っぽなんだから。(空っぽというイメージが、空っぽを見えなくするのです!。思い描くイメージと、それを見る私が対立して力(リキ)んじゃう。なので空っぽは押し退けられちゃう。妄想にご注意~笑) -9/21

レッスンはずっと続いています。レッスンとは沈黙の側に立って人と出会うことです。レッスンをするとは、私と私自身の居場所・拠り所としての世間から、もろ手を挙げてはみ出すことのようです。そこに開ける素朴な喜びを求めて。

さてさて、どこへ行くのやら(笑)

レッスンのスケジュールは、人間と演劇研究所HPでご案内しています。11月にはワンディWSも予定しています。よろしくお願いします。(瀬戸嶋)

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