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2014年11月17日 (月) | Edit |

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推敲舎の上田恵子さんが、人間と演劇研究所ワークショップに参加してくれた体験を、レポートしてくれました。
上田さんは、ここ二年ほど私のレッスン(ワーク)に興味を持ってくれて、毎回のようにワークショップに参加してくれています。(推敲舎のHPはこちら

10年ほど前に、大学の先生をしている友人から、「ばんさん(瀬戸嶋)のレッスンは、分析的・論理的文脈の中で説明するのは難しい。現象学的な手法に依る解説が必要だ。」言われたことがあります。

上田さんは現在、編集・推敲が専門の仕事ですが、学生時代には木田元先生(哲学者・現象学の研究者)のもとで、哲学を学んだ人です。

レッスンを何とか文字に起こせないものかと、私が相談したところ、快くレポートを纏めてくれました。

『現象学的からだ体験記―からだと声のレッスン・レポート Ⅰ 空間を満たす』です。

長文ですので、PDFファイルを以下リンクからダウンロードしてご覧ください。
【現象学的からだ体験記―からだと声のレッスン・レポート PDFファイル】

論文を読むような感じがあり、気楽に読むことは難しいかもしれませんが、私自身(瀬戸嶋)にとっては、たいへん鮮やかな切り口から、私自身のワークを照らし出してくれて、とても嬉しく思っています。
ついでながら、私自身のレッスンを「言葉化する」困難への言い訳(笑)を、以下に併載します。
ワークショップの参加者から「からだとことばのレッスンに、知り合いを誘いたいのですが、どんなことをやっているか、言葉で説明することが難しいので、パンフレットのようなものはありませんか?」と、たびたび質問を受けます。

じつは私自身、レッスンのパンフレットや案内文を作成しようと、10数年前から何度も挑戦をしてきました。そのたびに納得のいくものが出来ない。自らやっている仕事を口頭や文章で述べることに、困難を感じてしまう。

講座やワークショップの案内をする場合、パンフレットやチラシを作成して、告知(宣伝)するのが普通なのですが、それが出来ないわけです。

最近分かって来たことは、からだとことばのレッスン野口体操もそうですが、「先ずやって見て(行動してみて)、理解は後からついて来る」のが、その特色なのです。レッスンに参加すると、「こんな」ことを得ることが出来ます、「こんな」良いことがあります、と、「こんな」=結果(目的・商品?)を予め提示することが出来ない。

からだとことばのレッスン」は、演劇的アクション(行動)の課題を通じて、自分の狭小な自己理解を越え、新たな地平に立って自他に出会い、自他を理解しなおす作業です。いまある自分に何かをプラスしていくのではなく、自分の本質を残して、それを覆っている夾雑物を取り除いていくのがレッスンの趣旨です。

パンフレットを読んで「ああ、こんなことをやっているのか」と「理解」した上で、講座やワークショップに参加する。そして自分の「理解」(思い)を講座に持ち込んで、「ああ思った通りに、良かったな!」とか「チラシを見て思った程では無かったな!」「思った以上に得るものがあった!」と評価するのが普通でしょう。

けれどもそこには、何かを得よう何かを学ぼうとするときに、その学ぼう得ようとしている当の自分自体を問うことはありません。すでに確立した、自己に知識や技能を付け加えていくために講座に参加するわけです。

難しくなりました。

からだとことばのレッスンは、自分の中に隠された、本来の自分らしさを育てることです。
そのために、何かを付け加えるのではなく、自分本来では無いものをそぎ落としていくのがレッスンです。自分のほんとうの声・ことばを、自分のからだを、再発見し取り戻していきます。
私の云い訳よりも、どうぞ上田さんのレポートをご覧になってください。
【現象学的からだ体験記―からだと声のレッスン・レポート PDFファイル】


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2014年08月11日 (月) | Edit |

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ワークショップに初めて参加した人にとって、ちょっと不思議に思われることがあると思うので、一筆。

それは、私どものレッスンの場は、何かを得るための場ではないということ。
前回の定例会でも、初参加の方が「自分の問題を解決するための方法を得て帰れると思って参加したが・・・??」と云われた。

ふつうは講座に参加するということは、例えば腰痛の人は、腰痛を直すための方法、、、体操であったり、筋トレだったり、自分の健康への効果をもたらす技法や知識を求めて参加する。心が辛ければ、それを癒すための方法や知見を求めて、講座に足を運ぶ。知識欲がある人は、その満足を求めて講演や講習に参加する、世渡りのスキルを求めて・・・、となる。

講座やワークショップに参加する人は、何か自分に必要なものを求めてその場に足を運ぶ。そして講師の側は、参加者の求め(ニーズと云うらしい)に応じて、必要な技能や技法、知識を提供する。そして参加者はそれを得て持ち帰り満足する。
たぶん、これが非常に一般的な講座の意味であろう。

以前私は「何かを身につけたり、知識を得て帰ろうとしないでください。」と、レッスンの開始時に話しをしていた。「そういわれても、でも?」と思って当然のことだろう。そもそもみんな、何か自分のためになると思ってワークショップに足を運ぶのだから、当然のことだ。

(ちょっと屁理屈みたいになるかも知れないが、お許し下さい。)

私の基本的な考えは「全て必要なものは、自分の外部や他者の手元にではなくて、自分の中に備わっているよ。」ということ。健康になりたければ、健康になる働きは自分の中にある。肩こりを直したければ、それを直す働きは、自分の中にある。表現力を身につけたいというけれど、それも本来一人一人が持っていること。他者とコミュニケーションする力も。そこから考えると問題は、そのような働きや力が、どうすれば十分により良く働くかということになる。

さらに、そのような働きが十分に活躍するのを妨げているのは「何か?」「誰か?」ということになる。
それは、自分の心や身体に対する生半可な理解や、健康神話であったり、常識に照らしてしか自分のことが見れないせいだったりする。

実は、自分がこれこそが正しい、こうしなければならない、これこそが素晴らしい、信頼する他者や権威者がこう云ったからと、旗頭を掲げ自分が自分であるためにしがみついている価値観や常識、それが自分自身が元来持っている、自分自身を育て養う働きや力の活躍を妨害している。

大雑把に言えば、私達のレッスンの場では、為になる答えや知識を教えない。答え(をだす力)は一人一人自分の中にあるのだから。私達にできることは、参加された一人一人の人が、それを発見し直すお手伝いをすること。

だから、何にも教えない。むしろその人の持っている、心の覆いを剥ぎ取って、その人が自分自身と裸のお付き合いをすることをお勧めする。だから、レッスンが終わると、スッキリしてあけっぴろげの表情になって、みんな帰って行く。でも、家に帰ってみると、何も身についていないことに気がつく。あのワークショップは何だったのか?となる。繰り返せば、少しずつだけど、自分の中から新たに育ってくるものがあることを、感じられるようになって来るけどね。

様々なスキルやテクニック、何々教室や治療院を渉猟して歩くことにくたびれた人には、発見に満ちたワークになるかも知れません(笑)

それでも私も、人情ってやつで、ちょっとはお土産にと、こんなことしてみたらぐらいのことは、ついつい手渡したりしてしまう。良いんだか悪いんだか分からないけど。ホントはそんなのいらないのかもしれないけど。まあ、一人一人に合わせた、その人用の宿題だけれど。とくに「脱力」の体操をね。
今週末は、大分県で二つのワークショップ。演劇上演ワークショップと、「脱力」ワークショップ。こんなこと書いても良いのかな?参加してくれる人が、心配にならないかな?とか一応考えたけど、思いつくまま書きだしてしまった。大分の皆さまご寛容のほど、宜しくお願いします。
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2014年06月21日 (土) | Edit |

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先日、あるカフェでミーティングに参加しました。

話し合いが一通り済んだ後で80代の男性Sさんが、「ミーティングをしているときに室内の反響音が耳に響いて仕方がない。耳障りで他の人の発言が聞き取れない」と、まるで自分の耳が変になってしまったのではないかと云うように、たいへん不安そうに、皆に訴えました。

他の人達は60才以下もしくは前後で老齢にはまだ届かない人ばかり。自分たちには、話しをしているとき全く気にならないと云う。「それは齢のせい」「老化で耳がおかしくなっている」「仕方ない」と互いに無言の了解のもよう。老化に伴う異常事態と捉えているようです。

実は私も、苦にするほどではないけれど、室内の響きが気になっていて、人の発言を聞き分けようと、聴きづらい時には身を乗り出して相手の言葉に耳を傾けていました。思えば他の人達は椅子に腰かけたまま、身動きすることなくミーティングをしていました。

「私も反響が気になっていました。きっと脳の選択能力の問題だと思います。普通、脳は聞きたい情報にチャンネルを合わせて、音声を取捨します。話しを聞いているときには相手の言葉以外の音声や環境音を、脳が自動的に切り捨てている分けです。私は、舞台(演出)の仕事をしているので、場の環境音に注意を払う習慣があります。きっとSさんも、老化でそのような選択能力が低下しているだけで、室内の反響が気になること自体は、異常ではないと思います。」

皆さん、納得してくれたようです。とくにSさんご自身は、自分が異常では無かったのだと安心してくれて、「私のような年寄りでも安心して話せるように、カフェの壁に吸音処理をしよう。それがこの場を利用している人達に居心地の良い場所にするために必要だろう。」と言ってくれました。(因みにこの場は地域の人が集うコミュニティーカフェです。)

(マイクで録音をすると、人の声だけでなく、周囲の総ての音をフラットに拾います。脳の選択能力が低下するということは、マイクのようにすべての環境音がそのまま耳に入ってくることでしょう。無い音が聞こえる訳ではなく、全てがいっしょくたに聞こえてくるのです。騒音は騒音のままに、鳥の声は鳥の声のままに、吹き渡る風の音も全てが聞こえるということは、普段は聞こえないような声までが意識の中に進入してきます。心に染みる声音ならば良いのですが、耳障りで聞きたくない音まで聞こえてくるわけです。脳の機能の低下であっても幻聴のような異常ではありません。)

この体験のあと、私自身はいろいろ考えさせられました。

話し合いのとき、環境音を選択して聴いているということは、人の音声のうちの文字(言語)情報以外は自動的に切り捨てられています。これは言葉(意味情報)が主流となるコミュニケーションの場では、言葉以前のコミュニケーション世界が無自覚に切り捨てられてしまっているということです。

私が「からだとことばのレッスン」と云うときの「からだ」とは、この言葉以前のコミュニケーションの主体を示しています。「ことば」はこの意味での「からだ」の延長線上に生みだされる表現全般です。

例えば、発語に伴う息遣い。息がはずんでいる、息が浅い、のどが詰まっている、息苦しさ。声の抑揚、明るさ、柔らかさ、温かさ、堅苦しさ、頼りなさ、暗さ。身体の震え、微妙な姿勢の変化。言葉にならない、そのような情報を含めた「ことば」による表現とコミュニケーションの問題をさぐるのが私の仕事です。

ところが、ことミーティングの場では、それらが全く無視されてしまい、記号としての言葉の意味のみが尊重される。

「話しかけのレッスン」というワークがあります。5~6名の人が聞き手になり、話しかけ手になった人がその内の一人を選んで話しかけます。

聞き手の人は、自分に話しかけられた感じがしたら挙手をします。聞き手の人にはあらかじめ、話し手の意図や言葉の意味を汲まず、判断を差し挟むことなく、聞こえたままに反応することを求めます。

先ずほとんど、手が挙がることはありません。関係のない人が手を挙げたり、声があらぬ方向へ通り抜けていったりと、対象者に話しかけることが成立しません。

私達は普段、他者の言葉を、その意図や言葉の意味内容を汲んで、自分に向けられたものであると判断している。そこでは、相手の声(言葉)がこちらに触れてくる、手ごたえや心の反応は切り捨てられています。

言葉による指示やそれに対する理解力を求めることが、当然のことになっています。これはコンピューター同様、記号によって組み立てられた情報の交換が、話し言葉になってしまっているということです。

文化の進展にともなって、「言葉(意味言語)の世界」が主流になっています。それに対して私は「からだことばの世界」を発信していきたい。言葉によって切り分け切り捨てられた世界に、もう一度、価値を見出したいと思いを深くしています。

老人介護や子供の教育の現場では、整然とした知識の「言葉」よりも、「からだ」と切り離されることのない、生々しい「いのち」の胎動(リズム)を孕む「ことば」こそ、求めれられているのではないでしょうか。

人と人との対話を、言葉の意味のやりとりのみに限定し、それを当然とすることは、語彙や知識の量的な蓄えや言葉のテクニックにたけた人のみに優位となる、閉じたコミュニティーを作ることになります。当然、言葉の不得手な人にとってはそのコミュニティーに参加したいと思っても言葉の壁が立ちはだかります。

言葉の壁のこちら側に弱者を引き入れるのではなく、言葉の壁を崩すことの方が大切な気がしてなりません。

世間の人は「言葉(意味言語)の世界」、私は「からだことばの世界」の住人なのだとあらためて、考えさせられました。

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2014年06月14日 (土) | Edit |

最近、定例会以外でのワークショップの機会が増えています。セラピーとしてのレッスンでも、表現のレッスンをするときにも、WSでは「脱力」を基本レッスンとして、必ずとり入れています。今月末には西荻窪「ていねいに、」さんでWSを始めますので、この機会に「脱力」レッスンについて、文章にしてみました。ご覧ください。
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脱力」レッスンについて
普段は意識することのない、身体深部の筋緊張に気付き、それを取り除いていくのが「脱力」です。

肩こり、腰痛、痛み、ストレス、不安などが身体の表層に現れたとき、初めて私達は緊張を意識します。

逆から言うと私達は、不調になって緊張が意識に上らないときには、自分は緊張していないと思いこんでいます。

思い(意識)に任せて、不自由なく生活が送れているときには、自分が緊張しているとは思わないわけです。

ところが、丁寧に身体の内側の感じに注意を向けていくと、無自覚な筋緊張に気付くことが出来ます。そしてそれを緩めて(脱力して)行くことで、身体は解放感に満たされます。スッキリして心地良く、晴々とした気持ちになり、動くことに積極的になれます。

実は、緊張の結果が様々な症状として自覚(意識)されてからでは、手遅れなのです。セルフケアは諦めて、病院や整体院など専門家のお世話にならなければなりません。

大切なことは、自分自身の身体深部への感受性を深め「脱力」が分かってくれば、手遅れになる前にセルフケアが無理なくできるようになるということです。

身体の情況を知れば、「今日は無理しない方が良いな。ゆったりやろう。」「今日は少々無理して頑張っても大丈夫だ。」と、生活のリズムが創れるようになり、行動から力みが抜けてメリハリが出てきます。自分の身体のリズムに乗って、日常をしなやかに泳ぎ渡って行けます。

ワークショップで、「自分は身体が硬いので」と悩んでいる方とお目にかかる機会が増えていますが、「硬いのではありません、力のぬき方を知らないだけですよ。」と、私はお返事しています。実際、学校や様々な教室で、力のぬき方は、全くと言っていいほどに教えていません。

私は、30年ほど前に、東京芸大名誉教授の野口三千三先生から、野口体操を習いました。力を抜くこと(脱力)の大切さを学び、以来、野口体操を続けて来ました。野口体操はストレス社会を生き生きと乗り切るヒントの宝庫です。「脱力」レッスン(野口体操)を通じて、力を抜くことの大切さと喜びををお伝えできればと思っています。
【追記】心の不調の原因も身体深部の筋緊張の影響を受けます。運動筋(随意筋)に限らず、内臓や血管組織も筋細胞でできており、それ自体が伸縮運動をします。身体内部に固着した緊張は、不随意の筋組織にまで圧迫緊張を及ぼし、身体内の正常な体液や血流の循環を妨げ、脳や神経伝達の働きを妨げます。

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2014年06月04日 (水) | Edit |

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「脱力」のこと

理解しているようで、一般に、本当にはよく分かっていないのが「脱力」=「力を抜く」です。

「脱力」とは、筋肉や体組織の緊張を感覚的集中によって消去することであり、筋肉の意志的な伸縮運動であるストレッチやヨガとは筋緊張へのアプローチが異なります。

身体の部分に意識を集中し、そこに起きるてくる身体内の動きや変化に感覚を向けることで、身体の緊張がほどけて来ます。

呼吸を考えてみます。まず呼吸は全身運動です。身体は大気圧の中に浮かぶ水玉のようなものであり、息の出入り(呼吸)による水玉内の気圧(身体内圧)の変化は、身体の隅々にまで伝わります。肺や胸腹が動く(運動する)だけではなく、脚や腕の指先まで、普段は意識しないような微細な変化ではあるけれど、呼吸運動に伴って、圧縮されたり解放されたりと、全身の細胞が受動的に運動させられます。もちろん筋肉も受動的な伸縮運動をすることになり、ある意味呼吸は全身の非意識的なストレッチ(伸縮)運動になるわけです。

けれども、その微細な変化(伸縮運動)は、普段は意識に上ることはありません。私達の意識の分別能力は、非常に粗い網の目のようなもので、微細な運動(動きの)変化はその荒い網の目を素通りしてしまい、意識によって掬い取られ感知されることはない。集中とは、その微細な変化への感受能力を高めることです。職人が機械ではかなわないような、繊細微妙な手作業によって物作りができるのは、この種の集中力によるものでしょう。

始めのころは、意識の目の粗さに囚われて、微細な変化を感じ取ることは難しいのですが、時間をかけて繰り返し身体の様々な部分の感覚に集中をする(注意を置く)練習をすれば、意識の感受能力は回復し、より細やかに身体内の変化を意識することが出来るようになります。

それは同時に、意識(記憶)に書き込まれた自己の身体地図(イメージ)からの開放をもたらします。意識は既に決定された自己実感(実体感・個別の身体イメージ)を保とうとする働きを持ち、意識が働いているときは、無自覚ながらもその指令によって身体に緊張を強います。(全身麻酔をかけると身体が完全に脱力するそうです。意識の指令をストップした結果です。)

深い休息とは、この意識の働きからくる緊張を取り去らなければなりません。身体内の繊細微妙な変化に集中し意識するということは、日常的な自己に実体感を与えている目の粗い意識による緊張束縛から、身体を開放する(手放す)ことになります。

その結果、微細な伸縮運動が、自在に活躍し始める。自己実体感という身体を固定する型枠を外せば、呼吸による筋肉や内臓、全ての身体器官、細胞までが、内圧の変化による伸縮運動をはじめます。体組織の強張りが解かれ、緊張感が消去していきます。

そこに生まれてくる実感(身体感覚)は、「スッキリした」「気持ち良い」「軽くなった」「無くなった」「伸び伸びした」・・・。一般に力を抜いた結果を「だらりとした」「ぶらぶらした」「ぐったりした」「ぐにゃりとした」と云い現わすことが多いようですが、「脱力」の場合はこれとは異なる、開放感を伴う身体実感が生まれて来ます。

もう一点、「脱力」に関して重要な観点があります。呼吸によって伸縮運動を受け緊張から解放された体組織に、整序を与えバランスを整える働きは、重力によるものです。地球の中心と地球上の存在を結びつけるのは重力でです。身体組織が安らぎ、更に深い「脱力」を可能にする力は、地球の重心から天頂に向かう鉛直線(垂線)が重要な意味を持つ。身体組織は、鉛直船に沿って働く重力によって引き下されます。

実際の「脱力」は、初めての場合、床に仰向けに寝た姿勢で行います。呼吸による伸縮運動で柔軟性を得た体組織は、重力によって鉛直方向に引き降ろされます。卵の殻が割れてその中身が床に置かれるように、身につけた外殻が消え去り、身体は重力によって、床にぴったりと吸い付くように、さらに床と身体の一体感に溶け込んでいくように変容します。自分という、外部と自己を分ける実体感は消え、世界に包容されたような安心感に満たされる。意識は監視者としての役目を離れてクリアーになります。

この呼吸と重力・身体組織との交流関係の中で、私達は生きている。(生かされている。)その理解の前提の中で「脱力」のレッスンは進められます。

「脱力」についての説明は大変に難解かもしれませんが、実際はとても単純な運動です。始めは二人で協力して行うことが多いです。これらのことが、自分の中で実感として捉えることが出来るためには協力して行う方が分かりやすい。基本が分かってくれば、坐ることも、立つことも、歩くことも、、、日常動作の全てが「脱力」の機会として捉えることが出来るようになります。

以上、身体のことばかりで、心のことには触れていませんが、心の苦しさは、心と身体の一体感を忘れたところから生じる不安に由来しています。身体の感覚を育てることは、心を育てることでもあります。それはそれで、丁寧な説明が必要かもしれませんが、いまはこれまで。

最近、アメリカから輸入された「マインドフルネス」という瞑想や坐禅によるストレスケア法が、話題になっていますが、これは東洋や日本古来の坐法と呼吸法を応用した技法のようです。その基本的な意味付けは、以上の様なことだと、私は思っています。

せとじま


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