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2018年04月06日 (金) | Edit |
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このごろ相対的個性と絶対的個性と言うことをよく考えています。

絶対とは強い言葉に感じるかもしれませんが、対するものを絶つ。つまり比べる物を持たないことです。絶対的個性とは平たく言えば、他に比べようのないその人ならではの個性のことです。「私らしさ」「その人らしさ」ですね。

相対的個性とは、相(あい)対して、つまり比べるものがなければ、それを個性として認めることができないと言うことです。私は他の人に比べて優秀だとか、美人だとか、自分は誰それに比べて劣るとか、人の役に立つとか。自分の地位を他の人と較べて、そこに自分の価値=相対的な位置づけを決める。

個性というのは、個の性質ですから、自分ならではの特徴です。本来個性とは「その人ならでは」のことで、相対的個性というのは、ことば本来の意味から言えばあり得ないのです。

ところが、現代の言葉遣いの中では、個性とは相対的な意味でしか使われなていないようです。相対的個性という言葉自体が矛盾を抱えているにも拘わらずです。

「その人らしさ」とは絶対的なもので、他の人とは較べようのないものなのです。よく個性を育てる教育などと言いますが、個性という言葉から言えば、個性的でないものは一人もいません。それを育てようと言うのだから、おかしな話です。

余談ですが、「相対」と「絶対」とは反対語(対義語・反義語)ではありません。「絶対」とは比べようの無いものですから、それに対する言葉は無いのです。

さてそれでは、絶対的個性を現実にはどう捉えれば良いのでしょうか。じつは私たち一人一人がそれぞれに絶対的個性的な者なのです。それこそ、このことが誤魔化しようの無い絶対的な事実なのです。

「からだとことばといのちのレッスン」を続けていると、人が変わっていきます。その人の個性的な部分がひらけてくるとでも言いましょうか、変化が生まれてきます。

ただしそれは、どこがどう変わったとは言い難いのです。何か感じが変わったとは言えるのですが、それ以上に言葉にはなりません。あえて言えば、私から見てその人が、私の持っていない「何か」を持っていると発見させられ、それと感じたときに、その人が変わったと思うと言えば良いかもしれません。

それまでの関りの中で、その人の個性として私が頭の中で理解していたものではない、何かが見えてくる。「あれ、この人ってこんなだったけ?」と驚かされる。その人なりの魅力があらたに発見されるのです。楽しいことです。

もちろん当人にとっても、自分の理解の枠には収まらないところで、自分の表現が生まれてくるのですから「なにこれ?不思議?良く分からない!でも嬉しい!」となります。

これはそれ一回で終わりというわけではありません。レッスンを続けていると繰り返し思い掛けない発見があるのです。

どうやら絶対的個性というのは、その人が繰り返し新たになって行き、未知なる自己をあらたに発見する、その連続のことかも知れません。そしてその連続を後から省みたときに、それを個性と呼ぶのでしょう。要は日々新たに自己を生み出していくときに、その生き方が個性なのです。

けれどもこの「繰り返し新たに」が難しいのです。人体60兆の細胞は7か月ですべてが入れ替わるそうです。身体の中では古参の細胞が消えて、新人の細胞が新たに活躍する。まさに繰り返し新たになっていくのです。細胞だけではなく、おそらく心も日々新たになっているはずです。ところが、意識はそうは思わない。

じつは相対とは、頭の中だけで成り立つことです。「分かる」とは、何かと何かを分けて見ることが出来たと言うことです。そしてそれを積み重ね、頭の中で図式化したのを観念とか理念と呼びます。「考え」ですね。

現実は考え通りに行かないものです。それなのに現代人は頭の中での考えを、現実と勘違いして、全てを考え通りのものと決めてしまおうとする。上手くいかなければ、さらに考え(観念)を厳密にしてものごとを解決しようと努力する。

結局、その考えは現実とは乖離していくばかり。これは脳の性質なのでしょう。現代人が悪いと言うのではなくて、現代があまりに頭脳(自意識)を尊重するために、こんなことになったのでしょう。

個性とは、脳内の観念的な構造物の優劣、それに基づいて作り出されたものが、役に立つかどうかを相対的に較べたものとなります。平たく言えば「私の方が立派でしょ!」。相対的個性です。個性というよりも自我・自意識と名付けた方が良いかもしれません。

流通とは価値の交換です。質が良いとか悪いとか、値段が安いとか高いとか、見栄えが良いとか悪いとか、相対的な者や人への価値付けによって商品が流れます。絶対的価値観の成り立たない世界です。絶対的個性的なものは、値段が付かないし流通できません。奈良の大仏を買いたいから値段を教えてくれなんて言う人はまずいませんね。それは絶対的に唯一のものだからです。

相対的個性、つまり自我自意識は流通に乗せることが出来ます。現代の講演家などはまさにそうですね。聴講者がその講演から得られた知識も、直接はお金に結びつかなくても、自分の価値を高めるのに有利なものになります。流通に乗るのです。

絶対的個性は、流通に乗らない。流通に乗ってしまってはもう絶対的なものではなくなるのです。奈良の大仏に成れとは言いませんが、生きるとは絶対的個性の現れと見たときに初めて、自分の人生を納得のいくものと見ることが出来ます。

絶対的個性は、日々の中で繰り返し新たに磨かれて行くものです。もともとそれぞれの人が内に秘め、持ち合わせているものですから、それを発見する喜びを妨げる相対的個性という、観念的な見方を手放して行けばよいのです。役立たずの馬鹿になる喜びを知れば良いのです。そのとき、自身の絶対的個性が生まれ育つために、他者や自然の必要なことが、その有難さが身に染みて分かってくることでしょう。

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