FC2ブログ
2018年09月21日 (金) | Edit |
IMG00077-ed2.jpg 

しばらく言葉を失い、沖縄三線に没頭し、沈黙を守っていました。
ブログの記事は5月12日(土)で止っています。変化を待つときだったようです。
これまでのブログへの投稿は、自分自身を整理するためのものだったように思えてきました。
そしてこの沈黙の期間に、その整理した自分自身を捨ててしまったようです。片付けたのですね。
8月になってFacebookへのつぶやきが、ぼちぼち復活してきています。並べて読んでみると面白いので、ブログを見てくれている方や、人間と演劇研究所Facebookページをご覧いただいている人たちにも見てもらおうと思いブログに纏めてみました。
私の個人的なつぶやきですので、読者の方にはチンプンカンプンかも知れませんが、ご笑覧いただければと思います。
以下。

◆去年の夏までは「暑い!」とこぼすと余計に暑苦しくなるので黙っていたが、さすがに今年はそうも言っていられない。声を大にして「暑い熱ぃ~!」「ビ~ル~♪」(笑)-8/1

◆工夫や努力が足りないからではなくて、考えて工夫や努力をするせいで、出来なくなっていることがある。そうすると楽しくない。(三線練習中)-8/15

◆「感じよう」とすると、「感じようとする自分」が出てくる。
この自分が曲者! -8/22

◆初めての眼で見てみると、いつもの町並みが、ヤケに輝いてみえる。なんだかそれだけで得した気分~♪ -8/31

◆もっとも難関の蓋が空いたようだ!これで生き方変わるかも。自由~♪ -9/2

◆声は「届く」のである。「届ける」のではない。心も同じ。心は「表れる」のであって、「表す」のではない。「届けよう」「表そう」とする努力が、声や心の現れを妨げる。厄介な矛盾。「声そのまま、心そのまま」と、人工(細工)を加えた「声、心」。自由とは「そのまま」であること。ほかに何もいらない。(自戒!) -9/11

◆知識は「ありのまま」を見えなくする。世を渡るに知識は便利なものである。けれども知識は「ありのまま」をも、知識の中に捕り込もうとする。本末転倒。「ありのまま」とは、母から子へと世代を超え時代を超えて繰り返し受け継がれてきた偉大な宝庫=「知恵」である。ソクラテスは「無知の知」という。老子道徳教では「混沌」という。仏教では「般若の知恵」というのだろう。「知恵」を欠いた「知識」は人を幸せにはしない。教育とは本来、「ありのまま」をお互いに手渡し確かめ合う作業ではないか?知識技能の伝授は二の次で良いのだ。 -9/14

◆レッスンでのこと。「頭で分かろうとしなしないで下さい。からだからからだに伝わるものを大切にして下さい。」「理解しようと努力するとしかめっ面になります。(意識が)からだに蓋をしてしまいます。ポカンとして、自分を空っぽにして見ていて下さい。」意識を通さずに(介さずに)「からだ」から「からだ」へと直接に伝わるものがあります。そういう「学び」があるのです。そうしなければ学べないことがあるのです。 -9/15

◆私に三線を奏でさせ、唄を歌わせる「誰か」が居る。それを私は神や仏とは呼びたくない。名を付けた途端に「誰か」は、「誰か」ではない私や人間の所有物となる。敢えて呼ぶなら「自然」と名付けようか、私と身一つの「誰か」を。だから「自然」がより良き音色を奏でてくれるように、三線の音色と私の声に、私の演奏と歌はこれで良いのかと、繰り返し奏でては問いかける。
(からだとことばのレッスンではこの「誰か」をあるいは「何か」を『からだ』と呼びます。「いのち」とも。) -9/17

◆空っぽにしようとイメージしてもだめなんだなぁ~。元来、誰もが空っぽなんだから。(空っぽというイメージが、空っぽを見えなくするのです!。思い描くイメージと、それを見る私が対立して力(リキ)んじゃう。なので空っぽは押し退けられちゃう。妄想にご注意~笑) -9/21

レッスンはずっと続いています。レッスンとは沈黙の側に立って人と出会うことです。レッスンをするとは、私と私自身の居場所・拠り所としての世間から、もろ手を挙げてはみ出すことのようです。そこに開ける素朴な喜びを求めて。

さてさて、どこへ行くのやら(笑)

レッスンのスケジュールは、人間と演劇研究所HPでご案内しています。11月にはワンディWSも予定しています。よろしくお願いします。(瀬戸嶋)

2018年02月28日 (水) | Edit |
DSC_0868ed.jpg

レッスン曼荼羅(7)

「届く声」

とある心身に関する学術講演会でのこと。演壇上で講話が始まったのだが、話しが聞き取りづらい。講演者の発音が特に悪い訳ではないので、一所懸命に耳を傾ければ意味は分かる。そこでホール担当者に声をかけてマイクのボリュームを上げてもらうが、効果がない。

聞こえなければ、どんな素敵な話であっても意味がない。聴講者がもっとよく聞こうと身じろぎしているのが見える。けれども演者への遠慮か、だれも「聞こえません!」とは言わない。進行の担当が演者のところに行って、ハンドマイクを演者の口元に押し付ける。

話が聞き取れるようになり、客席のざわめきは消えた。ところが話が進むうちに、またまたマイクが口元から離れ始める。それを進行役がマイクを持ち上げる。そんなやり取りに草臥れたのだろう、聴講席には椅子にもたれて居眠りする人が出てくる。とぎれとぎれの話を聞き逃すまいと、さらに緊張し息をのみ、じっと身を固めて話に耳を傾ける人もいる。

不思議なことに、100名あまりの聴講者(観客)を前に、講演者本人は観客のそんな反応に、全く気がついていないようだ。そのうえマイクを持ち上げれば、僅かに怪訝な表情を浮かべる。話し始めれば自分の話に満足しているのだろう、穏やかな顔に戻る。

これに似た経験は、誰もがどこかでしているのではないだろうか。職場で、学校で、、、。

なぜこんなことになるのか?講演者が『自分の頭の中で、自分の声を聴いている』からである。自分の頭の中に響く自分の話声に耳を傾け、聞き入っているからである。

彼にとって、自分の声の響きは、十分な音量と的確な発声をもって、自分の耳に届いている。自分の話したい内容も、よく整理されて分かりやすいと思っているのだろう。おそらく今日は良い感じで話が出来ているとさえ考えていることだろう。彼は何の問題も感じていないはずである。

しかしながら、彼は自分の頭の中に響く声のみに注意がとられている。聴衆の反応やマイクの響きは、彼の耳には入っていない。

頭の中に響く声と言ったが、それを骨導という。喉や口腔内に響く声を、顎や頭骨を通じて、直接に耳(鼓膜)に響かせ、それを聴いているのだ。糸電話を思い出せば良いだろう。声を響かす部分(送話器=喉・口・鼻など)と鼓膜(受話器)とが、糸で結ばれている。このばあいは骨がその糸の役割を受け持っている。

空気中を通過しない声は、その抵抗や質の変化を受けることがない。他者から自分の耳へと至る時間差もない。自分の頭部以外の身体各部に響く声(振動)も、注意(意識)の外に置かれる。骨導を通じた自身の声は、外界の他のどんな音声よりも、優先的に自分の耳に届くことになる。

自分の中の糸電話(骨導)では、小さな声でも十分に聞き分けることができる。強い声では自身にとって、むしろうるさく聞こえるくらいだ。大きな声は思考の邪魔をする。そのため観客席から、よく聞こえないと指示されることには納得できない。自分ではこんなに良く聞こえているのだから、聞こえないはずはないと思ってしまう。機器に録音された声は自分の声ではないと言い張るひとはこういう人だ。

身体の他の部分(胸や腹など)に響く雑音もカットされてしまうのだから、自分ではクリアーな声で話していると思い込む。講演のときなどは、自分の話の内容と耳に響く声の心地よさににうっとりすることもあるだろう。今日はいい話が出来たと満足するわけである。

これはまさに言葉の真の意味での自己満足である。聴衆や観客の満足は、眼に、、否、耳に入らない。こんな素晴らしい話が出来たのに、居眠りしたり、しかつめらしい顔をしているのは、あんたたちが悪いとなる。

このような講演者の声は、観客には届いていない。むしろ聴講者の方が一生懸命になって、観客席から演壇上の講演者に向かって自分を届けているのではないだろうか。聴講者は周囲の雑音のみならず、身内の雑音(こころの動き)から身を剥がすように、眼をむき演壇に向かって身を乗り出し、いま風の言い方をすれば、自らのミラーニューロンを、講演者の脳に同期させようとでもするかのように。

これは洗脳である。洗脳とは権威者の意図だけでは成立しない。それに同調しようとする、それを受ける側の意図が必要なのである。

ともあれ、そんな努力から、その場で身を引いてみると良い。椅子に深く腰掛け、息を深くつき、自分の身体の中に注意(意識)を戻せば良いだろう。講演者の声が自分には届いていないことが、分かるだろう。

    *    *    *

それでは、声が届くためにはどうすれば良いのか。
割合に簡単なことである。糸電話の声から離れれば良い。しかしこれは単純なだけに難しい。

思考や観念は、糸電話と同期しているようだ。大きな声や周囲の雑音は、糸電話の声を乱す。それを許すことは自分の絶対としている思考や観念(考え)を邪魔することである。講演では観客の静粛を第一とし、それに従わぬもの、あるいは従えぬものは、その場からつまみ出される。

これが素人の雑談ならば、「あいつは分かったようなことばかりを言う。理屈ばかりで偉そうに!」のひと言で済まされるのだが、講演者相手にそうはいかない。

余談だが、学校の教師の声が教室で生徒に届かないことに気づき何とかしたいと相談を受けたことがある。教師も頭の中の糸電話をしっかり握りしめているのだろう。子供たちには、そのことが見えて(感じられて)いる。教師の声(言葉)への子供たちの反応は、ストレートに問題を指摘する。「大騒ぎをする!」(糸電話ではなく、こっちを向いて話せ!と)

糸電話(骨導)を切るには、自分の頭の中に向かっている注意を外に向け変えればよい。
糸電話に縛り付けられた注意(意識)を、観客との間の空間に差し向ければ良い。声は拘束から解き放たれたように、講演者とそれに向かい合う聴講者との、互いの面前に響きだす。

ところが自分の考え(観念)に自信を持っている人ほどこれが難しい。人に自分の考えを伝えることに使命感を持っている人などさらに大変である。こえが外に響きだすと、自分の考え(=図式)が、自分の中にではなく、目の前に浮かんでくる。自分が話している内容が目の前に展開するのだ。自分の中に押し込めておいて、厳密にコントロールされていた言葉の文脈が、そのコントロールの縛りを離れてしまい、他人事のように、外部に対面することとなる。

彼(講演者)にとって、自分とは何かと問われれば、それは考えそのものだと答えるだろう。おそらく無自覚にであろうと思うが、彼は自分の考えが何より大事なのである。その他(生活や自然)は、彼の考えを支え補強し証明するための、その考えの正しさに奉仕し従僕すべき者たちなのだ。彼のような者を権威やインテリという。彼らにとって自分とは考えそのものなのである。権威やインテリのそばに働いたことのある人ならば、良く分かると思う。「考えは素晴らしいが・・・?!人間としては?」となる。

声が自他の面前に差し出されるとき、考え(思想・思考)と自分(自我・自己)との同一観=癒着が切り離される。唯一絶対の自己と見做していた頭の中の考えと自分との間にある癒着が、切り裂かれる。ごくごく当然として思っていた自分像が、破壊されるのである。

声(こえ)とは「超え」「越え」の意味をも重ね持つ。自分(自我)という垣根を「越え」て、声として外部に響きだしてしまった言葉(考え・思想・思考)を、意識(=私)は他人事として眺めなければならない羽目になる。考え(思考・思想)から引きはがされ、そこに残った自分とは、空っぽの自分(意識)である。

専門のすべてを手中にしていると思い込んでいた自分(意識)が、手ぶらのまま置き去りにされる。自分を自分たらしめていた物が奪われ、何も持たない無知の自分を知り愕然とし、人前に、防備を外した自分を晒す恐ろしさに震えることとなる。(禅では無一物というと思うが、何も持たないのが「意識の本来の姿」なのだろう。意識が何かを所有していると思うのは、勘違いと言うことだ。)

しかしながら、ここが「届く声」に至るためのスタート地点になる。自分の考えに引きこもるのではなく、人に通じる考えを、それを聴く人と共に探求していかなければならなくなる。人類(人間)のためを説きながらも、考え(観念)の中に立ち、今まではその人類(人間)の中には立って居なかった自分(エゴ・自我)が、自分も人類の一人として、人類について語り始めるのである。

    *    *    *

声が届いているかどうかは、感覚的に誰でも手に取るように分かる。眼を閉じ息を深くして寛いだまま、静かに耳を澄ましていればよい。届く声は自分のからだとこころに触れる。触れてくるものが無ければ、それは声が届いていないと言うことだ。判断や理解のつけ入るすきはない。ただ届いているかいないか、それだけのことである。感覚の世界である。

    *    *    *

「からだとことばといのちのレッスン」では「頭の中の糸電話」を取り払う。声に絡みついた頸木が解放され、生き生きと弾む「こえ」と「ことば」がレッスンの場を満たす。こころ(=感情)が舞い踊り、イメージ(=言葉)が湧き立ち、「いのち」がお互いを物語の世界へと運ぶ。日常を超えた手放しの喜びを生きる祝祭が成立する。自我はその担った重荷から解放され、本来の自由=自分を再発見する。「跡は野となれ山となれ!」あらたな各人独自の歩みが始まることだろう。

    *    *    *

レッスン開催のご案内は、人間と演劇研究所ホームページでご覧ください。


《 Facebook 掲載コメント 》
【ブログを更新しました】
「頭の中の糸電話」、ワープロを打ちながら浮かんできた言葉です。言葉によるコミュニケーションを考えるとき、大切なキーワードになりそうです。耳というのは他者や自然の声=外から来る音声を聴くためにある筈なのに、自分の発声器官と耳を直結してしまい、外部からの情報を遮断する。みんな自分の頭の中に引きこもり、雑音を廃し、人や自然を、自分の頭の中(脳の世界)の登場人物としてしか見れなくなる。それはバーチャルに閉じこもること。恐ろしいことが現実に進行しているようです。だから、独りごとの世界=つぶやき=Twitterが当然になる。何とかしなければと思います。だからレッスンが必要なのですね。人と人とが、いのちが直接に交流する喜びを取り戻すために。
(瀬戸嶋・ばん)


2018年02月17日 (土) | Edit |
DSC_1043-ed.jpg

レッスン曼荼羅(6)

「声をひらく」

声が出ないのは、決して努力が足りないからではない。声が出ないような状況をからだの中に自分自身で無自覚に作っているのだ。

その原因は緊張である。声を出そうとする瞬間に、意識することなしに身体を緊張させて、出て行こうとする声に蓋をしているのである。

それではその緊張がどこから来るかと言えば、学校教育のなかで知らず知らずのうちに、身に着けている場合が多い。

分かりやすい例を一つ上げてみる。

声のレッスンをしていると、声を出そうとして、肩と胸を持ち上げて息を肺いっぱいに吸い込んでから声を出す人にたびたびお目にかかる。これでは肩と胸に力(緊張)が入り、気道を圧迫する。声を聴いていると息苦しくてならないのに、本人は平気な顔をしていることが多い。

「大きく息を吸って!ハイ声を出しましょう!」などと、どこかで指導を受けて、それを鵜呑みにしてきたのだろうが、これが肩こりや高血圧の原因となっているとは、本人は思わない。気道を圧迫して喉を詰めれば、苦しいのが当たり前なのに関わらず、声を出そうとして自分で自分の首を絞めているのである。やたらハイになっているようにも見える。

自分で原因を抱え込んでおきながら、肩こりの痛みを逃れようと、足繁くヨガや整体に通ったりする。無理がたたれば、声帯を痛めて声が出せなくなる。もう無理はよして下さいと言う「からだ」からの訴え、ブロックである。

こういう人に、息を吸わずにいきなり声を出すように言うと、たいていが疑り深い顔をする。息を吸わなければ声が出るわけがないと思い込んでいるのだ。おそらく学校で習ったことを疑うことなくそのまま受け取ったのだろう。「大きく息を吸って~!はい、大きな声を出しましょう!」というよくある指示である。教師の言うことを良く聞く優等生というところか。私のような落ちこぼれでないことは確かだ。

活発で社会的に有能な人にこういう人が多い。何事にも胸を張って(胸郭を持ち上げて固めて)生きてきた人だ。意志が強く教師や上司の意図に良く答えることができる能力を持った人たちである。人を動かすことが得意な人たちでもある。胸と声を張り上げているので押しが強く、一見意志が強そうに見える。(逆に教師の言に素直に従った結果、理由もわからず声が出なくなり、コンプレックスを持った人もいることだろう。首は神経などいろいろな器官が狭い通路に目白押しだ。ここを締め付ける発声は、その緊張により神経や脳機能の障害をもたらすこともある。コンプレックスくらいならばまだ良いのだが。)

息を吸わねばならぬと思っている人には、説明して納得してもらっても仕方がないので、ともかく声を出す前に息を吸わないで声を出すのを試してもらう。声を出してみると驚く人が多い。胸を持ち上げて息を入れない方が、声が出しやすいし、そのうえ楽に長く声を出すことが出来る。当人もだが、聴いている人たちもその変化に驚く。声を聴く心地よさに微笑みや笑いが漏れる。自分の出した声に茫然とする人もいる。

声は身体の底、お腹の底から溢れ出し、聞いている人たちを声の響きに浸す(ひたす)ように、空間や他者に向かって明るく流れ出していく。呼吸筋(横隔膜)が胸の緊張の縛りを免れて、動き出したのである。このとき身体の中は空っぽの管のようになる。笛が鳴り響くような感じである。こういう人は、もともとエネルギッシュな人なのだろう、声がひらかれた時の変化には皆で目を見張る場合が多い。

これは一例であり、声がひらかれていく過程にはさまざまな場合があるが、声の出なくなる原因は、発声時に無自覚に身に負う(筋肉の)緊張である。「こえ」は出て行きたがっているのに、無理・不合理な緊張がそれを妨げているのだ。

大きく口を開けてとか、お腹に力を込めてとか、もっと大きな声で、力を入れてと、指示をされることが多いが、これらは緊張を強いるだけで、無理な発声法を身に負わせる結果となる。自己流でやりすぎれば、当然声が歪む。

動物的勘とでもいうか、無理や不合理には、理由は分からなくても従えない人たちがいる。直観の利く人だ。そんな人たちは指示に従わない、あるいは指示に従えない無能な落ちこぼれと見做されることもありそうだ。学校教育というのは怖いものである。良心をもってして、人の首を絞める方法を教える(笑)

ともかく、声というのは努力して出すものではない。声の出て行きやすい状況を身体に準備すれば良い。声の出て行くのを妨げている緊張を取り去れば、声は自ら喜び勇んで飛び出して行く。声を出すのにテクニックやトレーニングはいらない。蓋をとり、声をひらけばいいいのだ。

声がひらけて行く過程に立ち会うと、個人の意識をこえて声自体が意志をもち、人や空間に向かって響き合いを求めて飛び出してくるように感じられる。これを観て私は「こえはいのちのあらわれである」という。

    *    *    *

「からだとことばといのちのレッスン」では、発声時の緊張障害を解除する(チカラを抜く)手立てとして、野口体操に負うところが大きい。野口体操との出会いが無ければ、このような声へのアプローチは発見されることがなかっただろう。野口体操では身体を「透明な中空の管」とみなす。その管を共鳴体として利用し「こえ」は自らの響きを奏でるのである。このとき「からだ」と「こえ」の区別は消え失せる。

    *    *    *

レッスンの開催予定は人間と演劇研究所ホームページでご案内しています。

2018年02月07日 (水) | Edit |
DSC_0992-ed.jpg

レッスン曼荼羅(5)

「声と息」

声には、意識して出す「声」と、そうではない「こえ」がある。

ふだんあまり自覚することは無いかもしれないが、私たちは「声」を発するとき、自分の「声」に注意が取られている。常に自分の声を確認しながら話しているのである。

意識は、自分の「声」をチェック(判断)し、ジャッジ(審判)しているのだ。それは「声」が詰まったり喉に引っかかった時に良く分かる。違和感を感じて、変な「声」だと思い、発声をコントロール(調整)しようと躍起になる。

そのため、話す(「声」を出す)と言うことは、不断の緊張を強いられるものと感じられる。声を出すのは特別なことで、人によってはたいへん草臥れるものだと思ってしまう。

このようなときの息づかいは、単調である。息苦しさを乗りこえるように、一生懸命に張り切って「声」を発するのだが、息を絶やさぬための努力の痕跡が、息づかいとその発された「声」に入り混じる。

聞いていて堅苦しく、あるいは聞く者の心を動かすことのできない、癇(かん)に障るような「声」になる。(鞴フイゴのような息づかいの人が多い)

何とかせねばと、良い話が出来るように、話しの内容(話題)や話し方(語り口)に工夫をして、相手の意識(頭・脳)に働きかけて、心を動かそうとする。

けれどもいくら上辺を繕ってみても、話しの土台の「声」がそのままでは、何をやっても虚しいこととなる。「声」は、「言葉」は、聞き手という存在(=「からだ」)の深みへと至ることは無い。

芝居嫌いのひとたちが「わざとらしくて嫌だ!」(役者の振る舞いや物言いを)というが、最もなことだと思う。アナウンサーの話し方もそうだ。その「声」は意識的人工的な、手の込んだ作り物なのだ。

アナウンサーの「声」は、用意されたニュースや文章の内容を、アナウンサーの頭脳から視聴者の頭脳へと的確に伝えるために作られた、特化された「声」である。「声」に含まれる心の揺れ(=感情=息づかいの乱れ)は排除されなければならない。

自ずと息づかいは単調となり、感情的な表現は、自身の心の動きとは関係を持たない。眉毛の上げ下げやしかめっ面、固定し崩れることのない笑顔であったりと、それは意図的に作られたものとなる。

震災のニュースを語るときには、それらしく顔をしかめた表情を作る。表情を作ることで私は同情していますと言う「サイン」を伝えようとする。自分の感情(=「声」の動揺)はふさがれている。身内や友人が震災に合っていたとしても、号泣は出来ない。悲しそうに見える表情をサインとして顔に乗せるだけである。意識と心は分裂する。仕事とはいえたいへんなことだと思う。

最近の役者の「声」もアナウンスの影響を受けているのかもしれない。作家の描き上げたセリフを、過たず聞きやすく、観客に伝えるための「声」になってはいないだろうか。「声」を支える息づかい(感情の揺れ幅)は酷くちっぽけである。平たく言えば「声」に味や深みがない。表現される感情(情動)の浅薄さを補うように、表情や身振りは大げさになる。声色で感情を代用しようとするので、やたらと耳につく「声」の抑揚。虚しさばかりの、中身の虚ろな表現にならざるを得ない。

さて「こえ」である。

分かりやすいのは、赤ん坊の泣き声だ。そこには作り付けられたもの(=蔽い・パッケージ)はない。泣き声は、聞く者の「からだ」の中に直かに飛び込んでくる。決して耳にウルサイだけではない。周りの大人の心(=「からだ」)に直接訴えかけ、心を揺さぶり行動を促がす。泣き声を聞けば、何とかしなければと大人は行動を起こす。泣き声だけではなく、赤ん坊の笑い声は大人の「からだ」に入り込み、自意識の内側に融け入り心を和ませる。裸の「こえ」だ。

赤ん坊は感情と息づかいの間に、自我の作った壁を持たない。心の動き=息づかい(「いき」の振幅=感情)は、開けっぴろげで、大人の意識を突破し、その「こえ」は聞く者の内面に至る。

何かと自分を固めて、身を立てようと努力している大人(父・母)には、赤ん坊の「こえ」は、その頑張りを打ち崩す破壊的なものと感じられてしまうのではないだろうか。聞く人の事情によって、天使の声が悪魔の声になってしまう。

「こえ」とは、感情(「こころ」)の動き=「いき」の動き(息づかいの乱気流)=「からだ」の内的な動きの、外への現われである。

最近「ウキウキ」や「ワクワク」という発言をよく聞くが、私はあれに胡散臭さを感じてしまう。

何か新たな発見を前にしての、「ウキウキ」や「ワクワク」という内心の動き(弾み)は分かるが、その感情が表現されるときの、表現行為は、踊ったり飛び跳ねたり鼻歌が溢れて来たり大声で叫んだり、という行動の形をとるはずだ。

それが「ウキウキ」「ワクワク」という言葉にすることで、心(=「からだ」)の実際の動きを離れた、中身の虚しい単なるサイン(記号・合言葉)に置き換えられてしまう。

脳は「ウキウキ」「ワクワク」している気になるが、「からだ」=「いき」は沸き立ちも震えてもいない(脳内麻薬自家中毒)。結果、心の動き(=「息づかいの乱気流」)を伴なわない、「声」と言葉の虚しさが一人歩きを始める。ここにも意識と「いき」づかいの分裂がある。

また記号(サイン)や合言葉はそれを解せぬ人たちを、阻害する。「こえ」(=「息づかい」)に、人を分け隔てる壁は無い。演技者と観客、教師と生徒等々、「こえ」は、容易それらの壁を「こえ」る。

感情と言わないまでも、「こえ」は「からだ」の内側の変化を直接露わにする。街中を行く人の「声」を聞いていると、やたらと「声」を張り上げたり、上ずった「声」で話す人が多い。

多くの人が、胸から上の上半身、とくに口や喉・鼻・顔に声を響かせている。腹から足への下半身に「声」を響かせている人は皆無である。これでは、腹の底から笑うとか、泣くとか、怒るとか、大きな感情や情動(息づかいの乱気流)を伴う表現は出来ない。

自分という存在を丸ごとつかみ、沸き立たせるような感情の表現は、横隔膜(鳩尾)あたりで蓋をされているのである。情動は腹の底からやってくるものだ。そのチカラが激しければ、自分の内に蓋をすることは、激しい葛藤を抱えることになる。さぞ苦しいことだろう。

「モチベーションをいかに上げるか?」とよく言うが、心が動くとは「息づかい」が自由に弾むと言うことである。それが「こえ」となって、空間を超えて(「こえ」て)他者の「からだ」を震わせ弾ませる。響き合いを起こし、場を息づかせる。

人間が生きるための原動力(自己を突き動かし前進させるチカラ)は感情(情動)である。同時にそれは地震や台風のような激しいエネルギーを孕むことがある。日常を「こえ」る、限界を「こえ」る衝動。

人間は「こえ」をコントロールすることで、情動に破壊ではなく昇華という、解放への道を用意した。

破壊に向かう鬨の声が戦場に響き、「声」を戦う相手へと向け、相手を威圧し震え上がらせる。破壊のための「声」。

伝統芸能の「能」では「こえ」は天地をこえて、激情を昇華し「花」と化す。「能」は人間の持つ破壊性の平和利用である。花火もそうだ、火薬(武器)の持つ破壊性を天地に捧げる花と化す。日本文化の凄さだと思う。

「こえ」をコントロールするとは、外から眺めて自分の「こえ」に細工を施し、「声」にすることでは無い。自らの「からだ」(=自身)が「こえ」そのものとなることで、コントロールは達成される。自己を「こえ」=情動に明け渡すとき、不思議なことではあるが、コントロールが可能になる、

息の乱れや激しさを正そうとするのは、情動を、意志のチカラで押さえつけようとすることだ。そうではなくて、「こえ」と自分、つまり「いき」と「からだ」の分離が修復され、回復されるとき、情動は「私」自らの存在そのものとなり、私の思いに賛同し、私を天地に舞わせる。「いのち」の風に吹かれて自由自在に舞い踊る自分自身が体験される。

このとき赤ん坊の「こえ」が、「ことば」=理性を持つことになる。「感情」と「理性」とは、葛藤から協働へと、その関係を新たにする。

「劇」というのは「はげし」と読む。舞台で「ことば」を語るとは、「はげし」=「息の乱れ」を「こえ」にして「花」として天地に手向ける作業である。天地は私たちの「からだ」を通じて喜びを表現してくれるのだ。これを「祭り」=「祝祭」と称ぶ。

「からだとことばといのちのレッスン」は祝祭の成立を目指す。

私は、「いき」も「こえ」も「からだ」も同じく「いのち」の現れと見ている。「いのち」とは、「い(イキ)」の「ち(チカラ)」、あるいは「いき」おのずからの働きである。

-----
人間と演劇研究所ホームページに、1987年当時の竹内演劇研究所でのレッスンの動画を掲載しました。HPの「動画・解説」の6番目をご覧ください。
-----
<Facebookコメントより>
【ブログを更新しました】
先日のレッスンで「内臓器官」が『主』で、運動器官や脳は『従』であるとの話をしました。寒さに震えるのは、体内環境(内臓器官)の温度を恒温に保つためです。そのために内臓が脳や運動器を利用する。
古来日本人は「腹・肚」の文化を育ててきました。丹田が『主人』(主体)です。
現代の人は、「意識」=脳が『主人』で「からだ」は『従僕』だと思い込んでいるようです。この思い込みが変わってくると、生きていることの意味が拡がり、楽しくなると思うのですが。
でも、世間の常識の壁を溶かすのは難しいですね。
『声と息』への、凝り固まった世間の常識を溶かしていくのも、一緒です。
「レッスン曼荼羅」は人間と演劇研究所ホームページ https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%B3/ に掲載しています。
(せとじま・ばん)

2018年02月01日 (木) | Edit |
DSC_0903-ed.jpg

レッスン曼荼羅(4)

「逆立ち」

『自分を投げ捨てる。投げ捨てようとする自分さえも投げ捨てる。』

「自分探し」という言葉はもう古いのだろうか。今では「自己実現」とでもいうのかも知れない。その根っこには「今の自分は、本当の自分ではない。もっといい在りようがあるのではないか?こんなのは自分で在るはずはない!自由になりたい!」と言う、上昇志向=我欲が働いているのだろう。自由という不自由がここにはある。

我欲というのは、裏返せば不満の現われである。自らに満ち足りることがないから、ほっつき回る。自分の理想に合わせて世界を変えようとして、身近の人間関係のみならず、果ては地球環境(母胎)をも破壊する。

自分の理想どうりの世界になったら、果たしてその人、あるいは人間は満足するのか。そんなことは無い。何もやることが無くなる。理想が叶うとは死の世界に入ることだ。後悔先に立たずという。最後には虚しさが待ち受けているとはだれも思うまい。

その虚しさこそが、スタート地点なのかもしれない。「うつろ」(虚ろ)と言う。虚ろになれば、今まで脳裡を占めていた理想(自分・世界)にしがみ付くことができなくなる。

理想を追っていれば、眼差しから煩雑な現実は追いやられる。思うに任せぬ現実から、眼を逸らすことができるので「心」の自由が保障(担保)される。それは理想という虚構を土台にした自由でしかないが。

「心」が虚ろになるとき、我欲の色眼鏡を超えて、様々な現実の光景が姿をあらわす。目の前にやってくるのである。その恐ろしさに怯え、また理想に閉じこもろうとするが、もう理想は自分を守ってはくれない。吹きすさぶ雪嵐の中に、一人身を晒すに似ていることだろう。

ようやく自らの現実が姿をあらわしたその時、それを受け入れることは、困難を要する。現実を見て来なかったために、当人は、理想という手立てしか持ち合わせていない。現実を現実として見て、現実の世界と関わるための手段を持たないのである。赤子と同じである。赤子に戻ってやり直さなければならない。

しかしながら私はこれを素晴らしいことだと思う。毎日が新鮮である。自分を自分として、他人や社会を憚ることなく、自分で自分を育て直すことができる。人や社会や自然と関わる、日々時々刻々が自分を学びなおす機会となるのである。

「自信」など木っ端みじんになれば良い。不安の中に一歩一歩を進めて行く、その「行為」こそが正真正銘の「自信」なのである。

「自信」を持て!という。そんなものは嘘っぱちでしかない。自負心というのは、傷を受けて直ぐに打ちこわされることは、誰でも知っていることでは無いか。

虚無は終着点=末路ではない。本当の生きることの意味を探る旅が、やっと始まる出発点だ。後戻りの利かない末広がりの道(自由)となる。

挫折を新たな始まりと観るためには並々ならぬ辛抱と苦労がいる。虚無を豊かさの土壌と観るには、全身全霊をかけて事実の何たるやを、ひとつひとつ見出して行かなければならないからだ。自分探しや自己実現などと言う言葉は、意味を失う。

『逆立ち』は、虚無を経過することで事実の豊かさを体験する手立てを与える。大地のチカラに身を委ねるレッスンである。私たちが体育や体操で習う逆立ちと外形は似ているが、意味内容の異なるものである。繰り返し地にひれ伏し、五体投地をしながら巡礼の旅をするのに近い。

結果から言えば、レッスンで行う『逆立』ちは、ふだん頭を上にして立っている自分が、そのまま逆さまに立つだけのことである。

ふつう体育や体操の逆立ちでは、姿勢を保とうとして、身体を張り詰め緊張させて一生懸命になる。一瞬の油断も許されない。バランスを取ることに全神経をかけて頑張る。

それらの努力を全て取り去ったものが、レッスンで求める『逆立ち』。ただ(只)立つだけである。頭の位置の上下が逆になるだけのこと。「我」は空間に融け去り、安楽で静かな喜びに満たされる体験である。自意識=からだ=虚ろが成立する。

立とうとする努力を放棄したところに成り立つ『逆立ち』。「自分が立っている」というその「自分」(=実感・努力)が放擲され、ただ「立っている」あるいは「立たされている」ことの成立。「立た・される・こと」、つまり他の働きかけ(この場合は大地のチカラ)によって、自らの行為=『逆立ち』が成されていることを識ることができる。

そこに至るためには「自分が~を成す」の「自分が」をどうやって捨て去っていくかが勝負になる。やがて「~を成す」という意志も「立つ」ことの中に融け去ってしまう。そこにやってくる『逆立ち』がある。

こればかりは、体験でしか伝えることが叶わないのかもしれないが、あえて言葉にすれば『逆立ち』とはこのようなものである。

実際には、自分の「からだ」の中身(重さ)を、手のひらを通して地面の中に流し込むと、その応答(反作用)として地面(大地)のチカラ(重さ)が私の「からだ」に還流してきて、私の「からだ」を吹き抜け、天に向かって立ち上がらせる。そんな感じである。

チベット仏教の信仰には、五体投地を繰り返しながら、50㎞から場合によっては1000㎞以上の距離を廻る「巡礼」がある。地を這う芋虫のように、大地にひれ伏しては立ち上がることを繰り返しながら進んでいく。それは苦行ではないと思う。大地のチカラを頂けるからである。(ちなみに苦行の「苦」は文明との葛藤にある)

私自身は、1980年代に野口体操に出会い、野口三千三さんの実践する『逆立』ちを学んだ。とはいっても、私は竹内レッスンを指導する前に、自分の「からだ」のウォーミングアップに『逆立ち』を繰り返していたのだが、ある時、野口体操の『逆立ち』がふとやってきた。逆立ちが出来たことの嬉しさに小躍りしていた自分を覚えている。野口体操に出会ってから7年目のことだ。まったく「ちから」のいらない『逆立ち』を体験した。

「自分を大地に投げ捨てる。投げ捨てようとする自分さえも投げ捨てる」それは「からだ」を通じてのみ成り立つ。自意識の計らいによっては発見され得ないものである。『逆立ち』が成り立つとき、我欲=自意識は融け去るのである。細やかな取るに足りないものかもしれないが、その時に体験される、ある「感じ」によって、私は初めて満たされ、喜びを持って自らの歩みに信頼を置くことになった。「虚無」は豊かさへと姿を変えた。これを「出会い」とも呼ぶ。

「我欲」は悪者ではない。むしろ私たちが生きて行くためには絶対に必要なものである。それは「虚無」へと私たちを導いてくれる。「我欲」が無ければ「虚無」を知ることもなく、真の自由を知ることもない。大切なことは「虚無」を終わりと見ずに、生まれ変わりの機会、真の豊かさを知る契機と見ることだ。現代はそんなチャンスに満ち満ちている(笑)

『逆立ち』は「我欲」に振り回され煩わされることのない、自由に生きることの始まりである。この「自由」を、中国の孔子は「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」という。日本では「煩悩具足の凡夫」「娑婆即寂光土」ともいう。



人間と演劇研究所ホームページにて他の動画もご覧になれます)

-------

<Facebookコメントより)>
「レッスン曼荼羅」を作り、一つ一つの「ことば」の奥底に潜む世界を探り始めました。「占う」とは「裏を綯う(なう)」。現実の出来事の奥底(裏)にある世界を、言葉に織り成す(綯う)ことですね。これが結構面白い。書きながら「はあ、そうだったのか!」と、感心することしきり。置き捨ててきたことにこんなに豊かな意味が隠されていたとは。長生きしてみるものですね~♪
レッスン曼荼羅は人間と演劇研究所ホームページでご覧ください。
(せとじま・ばん)