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2015年08月27日 (木) | Edit |
2015-08-25 026ed

姿勢が悪いのは、背筋や腹筋が弱いからではありません。誰の身体にも背すじを伸ばす力が働いています。それなのに背中や腰など、身体の部分を無自覚に緊張させて、もともとある伸びる力を阻害しているのです。

背中に物差しや柱をあてて、背中を真っすぐに伸ばそうと努力をする。これがそもそもの間違いです。自分の姿勢を、他者の眼差しや定規を基準にして、外側から力を加えて矯正しようとする。努力して筋力を鍛え、姿勢を正そうとする。

だらしがないとか、虚弱であるというけれど、そこにはちゃんと理由があります。姿勢に関して言えば、それは無自覚な緊張です。無自覚に身につけ常駐してしまった筋肉のこわばりが、背すじが伸びようとする力を押しとどめているのです。姿勢を良くしようと思うならば、この無自覚な緊張を解除すれば良いのです。

野口体操の中に「ぶら下がり」の動きがあります。外形は上半身を前屈させる体操に似ていますが、地面に向かって力をこめて前屈を深めることが目的ではありません。上半身を腰(股関節)のところから下方にぶら下げ、薄布がゆらゆらと風にゆれるように、胴体の緊張を揺らして弛めます。

十分に力が抜けていれば、身体自体の自重によって、胴体の背面や脚部のうしろすじが、努力することなく、自然に引き伸ばされていきます。同時に身体のゆれによって、背面の筋肉の無自覚なこわばりが、マッサージを受けたようにほぐされ、さらに自重によって上半身は、鉛直(地球の中心)方向へと、伸展を深めていきます。

身体を起こしてみると、身体の背側の緊張がぬけたぶん、背すじがスッキリとして感じられます。身長が僅かに伸びて、視野が広くなった感じがします。外から見ていても、実際に姿勢が変化しているのが分かるほどです。

地に足がつき、顔の表情からは険しさが消えて、安心して寛いだ感じ。安定したのびやかな立ち姿へと身体全体の印象がかわっていきます。

始めに「誰の身体にも背すじを伸ばす力が働いています。」と記しました。ふつう姿勢を支えるのは筋力だと考えられています。ここでは、姿勢は重力と大気圧によって支えられており、筋肉は姿勢のバランスの微調整を引き受けているものと考えています。

姿勢、つまり姿の勢いにまかせて、気持ちよく立てているときには、海底の岩礁に根をはやしたワカメのように、身体の場合はもっと微細な揺れですが、地面から天へと力を受け、寛ぎながらものびやかな姿勢となります。理屈はさておき、体感して欲しいものです。

【立つこと一つとっても、私たちは自然の恩恵を受けています。身体を意識の下におき、身体を努力によって鍛えなければいけないという発想は、もういい加減にやめませんか。寝ることも坐ることも立つことも歩くことも、大地(地球)とのつながりの中で、大地の力によって促されて成り立っています。生活そのものが、大地によって身体が育まれる機会なのです。そこのところを忘れて、あれこれ知識を増やし、意識して身体に取って付けることなど、ますます私たちを自然から遠ざけることになります。不安ばかりがふえていきます。】

2015年08月18日 (火) | Edit |
2015-07-16 003ed

(今回は密かに叫んでみます!)

根が生えた。虚空の中に。それは自分を認めたことでもある。自分の生き方を繊細ながらもガッチリと、捕まえたということである。

自分が社会と云うものを、自分の中から追い出した。そこに残された自分。しっかりと動きようのない、自分の形が浮き彫りになった。

自分の中に侵入し、自分ではない自分を自分としていた者の正体。社会はいかに巧みに私をその中に巻き込もうとしてきたのか。嘘っぱちの優しさをもって。正しさという脅迫をもって。力づくの支配をもって。聞く耳を持たぬ者たちの常套手段。

孤独の意味がかわった。孤独なのは私ではない。孤独なのは社会のほうだ。誰もが孤独を見ようとしない。孤独を誤魔化すためのコミュニケーションごっこ。

私は大地と共にある。道行く花々が私に声をかけてくる。大空は私をおおらかに包む。これを孤独というのなら、それは私の勘違い。社会こそが自然のやさしさから孤立して、みんな孤独を持て余している。

根が生えた。虚空の中に。それは自分を認めたことでもある。自分の生き方を繊細ながらもガッチリと、捕まえたということである。

簡単なことだった。それは師匠から受け継いだもの。ものごとを、そのまま見ろということだ。そのまま見ようとすることは、そのまま見ようとしない自分が、垢を落とすように剥離してくることだ。

そのままに見ようとすればするほどに、自分の眼と脳に染みついた、うんざりするほどあつぼったい、目詰まりフィルターがボロボロと崩れて、心に突き刺さる。それでもかまわず、そのまま見つづけるしかない。

怒りもある、悲しみもある、怖れもある、快楽もあるが、そんな残滓に心を盗られるな。目の玉を開き、心を向けろ。そのまま見るのだ。孤独の向こうに広がる生の世界を。

【57才、どこから来てどこへ行くか、最近、からだ(=いのち)の側から、ひどく問われているような気がしています。自分の歩みを整理しようと、ブログの画面に向かっていると、けだるさが付きまとうばかり。ちょっと思い切って叫んでみました。野口三千三・竹内敏晴・林竹二の三人師匠たちが、若かりし頃の私に何を叩きこんだのか、ようやく見えてきました。厳しい宿題です。またまた意味不明かも知れませんが、お許し下さい。】

2015年08月01日 (土) | Edit |
2015-07-15 041ed

やっぱり書きたくなったので、書いちゃいます。

先週「般若心経」を一般の人に向けて、分かりやすく紹介している本を4冊、図書館から借りてきて読んだのですが、どの本を読んでもよく分からない。小難しいばかりで、なんだか肝腎なものに全く触れさせてもらえないような気分で、歯痒くってたまらないわけです。

私は、仏教信者ではないのですが、人並みに「自分はこのままで良いのか?」とか「人生とは何ぞや?」と迷った時には、仏教の紹介本や解説書を紐解くことが多いほうです。何とかセラピーとか何とか開発法とか、迷った時の指南書は本屋さんに行くとたくさん並んでいます。でも新進の人生マニュアル本には、昔からまったく興味が動かない。

たいていは、図書館で古くてボロくなった、仏教の本を漁って借りてきて読みます。それも人生訓や説教、信仰啓発を旨とした本には興味が持てません。道元さんとか良寛さん、臨済さん、、、等々、昔のお坊さんたちの伝記や史実記を読むのです。あとは仏教の考え方に基づいた、哲学・思想、実践報告。

そう云えば10数年前に鈴木大拙全集全30数巻を読破しました。3年位かかりました。一人のひとが一生(享年96歳)をかけた実践の記録(全集)が、3年位で読めちゃうのだから凄いことだと、当時私は思いました。このときも迷いがひどかった時です。

それらを読んでいると、自分の悩みが解決するわけでは無いのですが、なんとはなしにホッとして嬉しくなってきます。答えが見いだせずに困っているときには、解決法を学ぶより、心底ホッとすることのほうが、私の場合は大切なのかもしれません。

「般若心経」の紹介本の話に戻りますが、久々に仏教書を読み終えたのに、ホッとすることも喜びも無いわけです。何のために4冊も読んだのだろうと、渋顔になってしまいました。

「般若心経」は色即是空で有名なお経です。なので、紹介本の4冊とも「空」の解説をしているのですが、4者4様、皆違う解釈をしていて、そのうえどれも私にとってはピンとこない。どうやらこの「空」が分かれば、良いことがありそうな気がしていたのですが、なんだか逆に、突き放されてしまった感じで、欲求不満でした。やっぱり私は頭が悪いと思うわけです。

でも一冊だけ、それは「空」の直接の解説ではないのですが、チベット仏教の「脈管(ツァ)」「風(ルン)」「滴(ティグレ)」を解説した短い文章を読んときに、これは野口体操に似ているなと思いました。(ダライ・ラマの般若心経:三和書籍)

4冊の本を読み終えて、しばらくボーっとしていたのですが、二三日後に「色はすなわち空である 空はそのまま色である」(色即是空 空即是色)と、なんとなく考えていた時に思いついたのが「なんだ!野口体操は「空」の体感だだったのだ!」。つづいて眼に浮かんだのが、京都六波羅蜜寺の空也上人像が南無阿弥陀仏の小仏(言葉)を口から吐き出している姿。「そうか!「空」の側から言葉を語らしめようとしていたのが「竹内からだとことばのレッスン」じゃないか!」

結局、これまで私がやって来たワークは「色即是空 空即是色」の体感実践だったようです。私のワークは実技中心で、言葉で説明したり理解納得することには重点を置いてこなかった。そのため「般若心経」に結び付けて考えるという発想も無かった。

けれども、からだの力を抜いていくと、からだは透明でからっぽな感じになります。空気に融けてしまったよう。「空の体感」です。そのまま言葉を語ると、言葉が彩りやリズムをもって表現されてきて、イメージの世界が立ちあがってきます。「空」に根ざした朗読です。

「野口体操」も「竹内からだとことばのレッスン」も、常識的、或は一般的な言葉で説明することが難しく、ずいぶんと苦労して来たのですが、「色即是空 空即是色」は私自身にとってとても収まりのよい言葉です。でもやっぱり他の人には分かり辛いかな。無いよりはましですね。

【先日、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をワークショップのメンバーに読んでもらったのですが、話者の声を通して、話者の日常的なあやふやさを超えて、宮沢賢治さんの「生きる覚悟」が力強く響き出してきました。私にとっては「雨ニモマケズ」が「般若心経」なのかもしれません。お経も文学も体操も演劇も同じく人間のためのもの。掘り下げていけば、どこかでひとつに繋がるのでしょう。】

2015年07月30日 (木) | Edit |
2015-06-16 001ed

自分のことを書こう。

いま57歳、このごろはこれまでの体験を振り返ることが多くなった。懐かしいからではない。世間の常識からは、ずいぶんと外れた道を歩んで来たのに気がつき始めたたからである。これからの歩みをはっきりさせたいとも思うからでもある。

何せ、二十代からこの齢になるまでの30数年、「野口体操」と「竹内からだとことばのレッスン」の実践のためだけに、自分の時間を使ってきてしまった。とくに使命感を帯びたり、情熱を燃やして一直線に人生を賭けて来たというわけでは無いのだが。

ましてや、大学や研究団体などの組織に所属したこともない。全くの個人で続けて来た。まさに「独自」に実践して来たのだ。活動を維持するために、料理屋や清掃のバイトもしてきた。こういうのを手弁当と云うのだろうか。

けっこう大変なこともあったが、「からだ」と「ことば」の探求にはかけがえのない喜びがあった。30数年続けていても、いまだに繰り返し、新たな発見とその喜びを私に齎してくれるのが「からだとことばのレッスン」である。

そもそものきっかけは、20代に竹内演劇研究所に参加したことだ。当時、中学の理科教員を目指していた私は、対人コミュニケーションに不安を感じており、「自分を変えなければ!」と云う思いで、竹内敏晴氏に師事した。(思想の科学社から「ことばが劈かれるとき」が出版され、竹内が時の人となっていたことを、当時の私はまったく知らなかった)

一浪して、東京の公立中学校に赴任したが、1980年代初めの学校教育の荒廃が噴出したころだ。新任の私は、手におえない重荷をいきなり負わされ、夢も希望も無く、にっちもさっちも行かない毎日。

それに比べて、週三日、夜間に通う竹内演劇研究所「からだとことばの教室」のレッスン。毎回、課題に集中し自己を表現・発見して行くことの、めくるめくような喜び。とうとう一年半で教職を辞め、竹内演劇研究所中心の生活に入った。

20代の私がそのとき思ったことは「竹内さんみたいになりたい」「竹内レッスンができるようになりたい」である。当時、レッスンの中で竹内さんに話しかけられることが、とても嬉しかった。

竹内敏晴56歳、今の私の年齢である。私はそれまで、大人の年長者とは対話の経験がほとんどなかった。一人の年長者を慕い尊敬する体験も全くなかった。年長者は私には関係の持てない恐れ多い存在だった。教師をしながらも、先輩や大人の指示は絶対との思いが自分の中に染みついていたようである。

竹内の指導するレッスンの教室では、自分を突破することをみんな真剣に求めていた。演技レッスンを手掛かりに、自分の中に根を下ろした常識(タブー)を突破し、自己を新たに発見していく場だった。「自分とは何?」「自分は何がしたいのか?」を理屈抜きに、体あたりで探ることができる場だった。

参加し始めたばかりのころだったと思う。レッスンで「みんなの前(舞台)で自分がなりたいものになって、行動する」という課題があった。私は迷いに迷って舞台にうずくまり「石」になった。5~6人の仲間が同じ舞台上で、歌手になったり、船になったりと、それぞれ自由に自分以外の存在になって表現(演技)をする中、私は15分あまりじっと身を固め必死で「石」になっていた。

その後、それぞれ自分が何になっていたか、みんなでシェアをした。「私は石になっていました」。石をやっていた時どんな感じだったかと問われ「楽しかった!」。教室のみんなが嬉しそうにどっと笑ったのを覚えている。こんな自分でも、自分に正直にしていれば、居場所があるということを発見したようだ。

一人で迷いに迷って、それでも一歩ふみ出して、何かをやらかしてみる。結果として必ず思いがけない自分に出会える。以来、その後の30数年、同じことの繰り返しかもしれない。

「竹内さんみたいになりたい」を追いかけ続けてきた結果、最近では「竹内からだとことばのレッスン」が、ようやく少しは自分のものになってきたようだ。どうやらそれは竹内らしくというより「瀬戸嶋らしくなって来た」のかもしれないが。ながい年月をかけ、「石」は「でくのぼう」くらいには成長したのかも。

【「般若心経」の入門書を4冊ばかり読んでみました。あの色即是空のお経です。私の頭では、どの筆者の云うことも理解できませんでした。でも「野口体操」や「竹内からだとことばのレッスン」は、どうやら「空(くう)の実践」のようなのです。いつの日にか、頭では無くて、からだの実践を通しての「空」について、言葉にしてみたいものです。私のような、頭の悪い人にもわかるように。】

テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体
2015年07月23日 (木) | Edit |
2015-07-02 001ed

ただ立つ、ただ歩く、ただ寝転がる、ただ声を出す、ただ朗読をする。ただ泣く、ただ笑う。実はこの「ただ」が難しい。人は自分の行動や態度に意味づけを求めるのです。

「真直ぐに」立つ、「カッコを付けて」立つ、「一生懸命に」立つ、「ぼんやりと」立つ、、、「努力して」立つ、「堂々と」立つ、「良い姿勢で」立つ。レッスンの場で実際に立って、その姿をみると、必ず「立つ」の前に意味付けがくっ付いてきます。

それでは「立つ」そのものは、どう云うことなのでしょうか。どうしたら成り立つか。そもそも意味付けの無い「立つ」などと云うものがあるのでしょうか。

答えを先に言えば「ある」のです。そこに行きつくには「立つ」にへばりついている、「意味付け」を剥がしていきます。

意味付けとは、からだの緊張です。背すじを棒のように固めたり、顎を上げたり、腰を反らしたり、膝を固めたり、胸を持ち上げたり肩を怒らせたり、、、、。そのことで「立つ」ことの本質が見えなくなってしまうのです。

体裁を良くするための、あるいは無自覚に身に貼りつけた、筋肉の緊張を丁寧にほどいて行くことで「立つ」ことが現れてきます。からだの中に、透明な管のような方向性の軸が感じられるようになってきます。重心が下半身に安定し、足のウラを通じて大地との一体感が生まれてきます。自分(=意味付け=実感)が消えて、自分のからだが広がり空っぽになった気がします。

「立っ」ている実感が無くなり、「立つ」ことを支える自分の努力感のかわりに、外力によって立たされている感じがしてきます。実際、私たちが立つことは、地球の重力や大気圧が大きな支えになっているのです。体内の骨格や筋力だけで「立っ」ているわけではありません。私が「立つ」ことは、環境との交流や助力によって成り立っているのです。受動的に「立たされている」のです。

「ただ立つ」こととは、自らが自分の努力以外の何かによって「立たされている」ということの体験的自覚と、それを許容・首肯することによって成り立ちます。その時、まわりで見ている人からは「うん、立っている」という「肯き」があるだけです。見る側にも「~として立っている」という意味付けは必要が無いのです。敢えて言葉にすれば、見ていて「自然な感じ」「楽そう」「気もち良い」「スッとしてる」「キレイ」などと言う感想が漏れれてくるだけです。

今の時代、自分にいろいろと貼り付けて、自分を作ろうという「プラスの発想・思考」が蔓延し常識になっています。私どもがワークショップでやっていることは、この逆です。剥がして行くことで本来の姿を取りもどして行こうと云う「マイナスの発想・思考」なのです。「ただ」とは、本質そのものを捉まえるための、キーワードですね。

【「ただ」を「只」と書いて「ロハ」。いまはやりの「~無料」です。これは価値や意味のあるものを無料で提供しようということでしょう。けれども「ただ」は、価値や意味づけのないところに、本当に大切なものがあるんだよ、というふうにも読めます。道元さんの「只管打坐」・ソクラテスの「無知の知」は、「ただの人間である」ことを探求したのかも知れません。】