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2018年04月14日 (土) | Edit |
【 関西「からだとことばといのちのレッスン」定例会 】
先月は賢治童話「ひのきとひなげし」の朗読をしました。ふつう本を読むと言うと、眼で活字を追って文章の意味を理解して、それを声にして表現することと思われているようです。
「からだとことばといのちのレッスン」では、理解や表現しようとする工夫を捨てて、直接に言葉を聞き手に届ける。ことばの覚束ない子供になったように、物語の文章のことばを、一音一音と確かに響かせ相手に向かって発していきます。
何の装飾もなく語られる言葉は、賢治さんの物語りに描かれた光景を、それを語る人へ垣間見せてくれます。
声と言葉の持つ響きが、交響楽のように物語世界をみんなの前に立ち上がらせ、物語との出会いが成立します。
囲炉裏を囲んで子供や家族らともどもに、語り部婆さんの話に耳を傾け、みんなで物語の世界に飛び込み心を震わせ一喜一憂する。そんなようなひとときです。
今月は、また言葉(朗読)のレッスンになるのか、それともからだの感じ方を深めて行くレッスンになるのか、参加される方々との中でレッスンは生まれてくるので、どこへ行くかはそのときどきの出会いまかせですが、またまた思う存分にからだとことばを楽しみたいと思います。よろしくお願いします。
(4月中のレッスン費用値下げについては、http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-283.html でご案内しています。)
瀬戸嶋

2018年01月06日 (土) | Edit |
人間と演劇研究所ホームページを新調しました。
新たな航海のためのしっかりした船が新装された気分です。
ホームページ-3-イメージ
(画像をクリックしてホームページをご覧ください)

思い掛けない仕上がりで、我ながら感心しています。
以前のホームページと較べながら手を入れて行ったのですが、その行間にある私のものの見方考え方が大きく変化した(=「からだ」が変わった)ことを実感できました。
2018年は、旅立ちの時となる予感がしています。

曼荼羅-ed
(画像をクリックしてホームページをご覧ください)

また皆さまとレッスンの場でお目にかかれるのを楽しみにしています。
どうぞこれからも宜しくお願いします。
人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充・ばん


テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体
2018年01月02日 (火) | Edit |
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「あらた」に繰り返しは無い。私自信が清流となり、流れくる光景の中を泳ぎゆく。時々刻々に変容し息づく無限の変転と私。その交響こそが「あらた」。

陽は沈み日は昇る。二度とない繰り返し。昨日と今日と明日は同じではない。いまここに昨日も明日もない。今日さえない。留まることのない、流れと出会いに身を委ね、次々に廻りくる喜びと変容の時々刻々、日々刻々、年々刻々を生きる「あらた」。

痛みも苦しみも楽しさも憤怒も安楽も絶望も快楽も、時々刻々に過ぎ去る「あらた」。途切れぬ流れが私自身となれば後悔はない。すべては喜びの現れである。

「新た」の「あら」、「現れ」の「あら」、ヤマトコトバ(古い日本語)の「アラ」に通じるのだろう。「アラ!」は出会いの感動を、良し悪しの区別無しに包み込む言葉だろう。新・荒・粗・嵐・露・顕・現・表などなど、漢字を訓(よ)めば「アラ」の世界の面白さが観えてくる。

「アラ」は強い言葉である。言葉に捕まり滞ってはならない。受け流せ、流れにすべてを放り込め。留まることなく目の前に湧きくる世界は喜びである。

新年あけましておめでとうございます。
あらたな船出に感謝です。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

2018年1月2日

人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充・ばん

曼荼羅-ed
(PDF版をご覧いただけます→こちら

2017年12月20日 (水) | Edit |
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200のカウントを見て、新宿定例会の第1回目を調べてみると『2013年3月9日(土)若松地域センター和室』とありました。HPを開始してもうすぐ5年。その間に200回のレッスンをしてきたことになります。

特別講座や関西WSをカウントすれば、300回を超えることでしょう。5年の間に300回、年に60回のペースでレッスンを続けてきたことになります。月に5回平均。もっと多いかもしれません。

ところでこの300回を越える繰り返しが、どのような意味を持つかということ言うことなのですが、変な言い方かも知れませんが、何かを成し遂げたとか、多くの実践を積み重ねものだという実感がないのです。経過=時間の積み重ねとか、結果=空間の拡大という感じがしません。積み重ねの結果、自分が多くの実りや知識・経験を獲得したと言う感じが全くないのです。

『集中の流れを真っすぐにたどること』、最近言葉になってきたことです。私自身がレッスンの中で何をしているか?レッスンの場を開き、集まってくれた参加者の中で、私は何をしているのか?答えは『集中の流れを真っすぐにたどること』、このひと言に尽きるようです。

激流を下るとき、船頭は障害物を避けながら、船を流れの本流へと導きます。流れは一瞬一瞬に深さや方向や、蛇行し勢いを変えます。予測のつかない流れの変化に向かい合うとき、あらかじめの対応パターンや方法というものは成立しないのです。

船に乗り合う乗客にしても、ただ漫然と船底に安座していては、船は激流を抜け来ることは出来ません。流れに目をやりながら、状況に応じて、重心を移動したり座席を変えたり、休まる暇は在りません。

激流を下るのに、同じ繰り返しと言うことは無いのです。船上の全員が、その時々何が起きてくるか予測のできない「いまここ」に立ち続け、川を下る。これには素人や名人の区別はありません。

私が船頭となって、参加者の人たちと協力して、集中の流れを渡り切っていく。これが「からだとことばといのちのレッスン」の時間と場で起きていることです。

集中の流れを無事に下るためには、経験や技能は役に立ちません。眼の前の状況に注意=「からだ」を開き、只々流れを見極め瞬間瞬間に対処し続ける。そんな繰り返しの300回だったのだと思います。

何度も沈没をしたと思います。船も大破したことでしょう。けれどもそこからまた立ち上がって船を出す。川を下るにはそれしか手はありません。そうこうしているうちに、私自身の船頭としての腕が、川の流れによって磨かれて、自分で言うのもなんですが、船頭の名人くらいには成れたようです(笑)

結局、300回共々、毎回私のやってきたことは一つだけのことでした。集中の川の流れを下ること。振り返れば、長い旅をしてきたような、一瞬のことだったような、いまだ流れの中にいるならば「いまここ」といわれる、時空の流れの制限を受けない処にいる。

積み重ねや技能・経験値のアップは無い。激流にわが身を削がれ洗われ、唯々「船頭」=「レッスン者」そのものになる。

集中の流れとは、いのちの流れでもあります。エンデの『モモ』に描かれた「時間の花」のことでしょう。賢治の『銀河鉄道の夜』に描かれた「銀河の流れ」のことでもありましょう。

まだまだ流れは続くでしょう。それは道があると言うことですね。知識や技能の獲得など進歩と言えるものは全くありません。道を行くしかないのです。幸せなことだと思います。

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大晦日から正月は、激流が静かな流れに変わるときかも知れません。船を岸に着け休養を取り、新たな船出を祝うひと時。

本年中は、大変お世話になりました。無事ここまで漕ぎ続けたことは、皆さまのお力添えがあってのこと。ありがとうございました。

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新年の船出は、1月6日(土)琵琶湖畔でのWS合宿からとなります。

◇関西滋賀合宿ワークショップ:https://ningen-engeki.jimdo.com/ワークショップ/1-6-8-滋賀琵琶合宿%EF%BD%97%EF%BD%93/
◇埼玉秩父大滝合宿ワークショップ:https://ningen-engeki.jimdo.com/ワークショップ/2-10-12-第10回秩父大滝%EF%BD%97%EF%BD%93合宿/

新春の船出を共にお祝いしましょう。よろしくお願いします。

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どうぞ皆さまも、お元気で新たな年の始まりをお迎え下さりますよう。

人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充・ばん (2017.12.20)


テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体
2017年12月08日 (金) | Edit |
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「息を感じる」(息を観察する)というのが流行っている。マインドフルネス瞑想である。マインドフルネスに熱心な人にだいぶお目にかかって来たが、私には何か腑に落ちないものがある。それは「息を感じる」ということに疑問を持つからだろうと思う。果たして私たちに「息」を「感じる」ことができるだろうかと言う疑問である。

厳密に言うと、私たちは息の出入りに伴う自らの身体の変化、お腹に注意を置く場合を考えれば、腹筋や横隔膜、骨盤や血管や神経など、息の出入りによって伸展収縮する、諸器官の変化を知覚しているのである。息自体、息そのものを感じているわけではないのである。

そこでは息は自我(脳神経)の知覚対象であって、息と私の間には、主体(私)と客体(息)という分離がある。そのために、感じ取っている対象は息自体ではなくて、自分の身体の変化なのである。注意は自分という実感を超えることは無いのだ。

「息を感じる」ことが成り立つためには、この主体と客体という関係、つまり自分の身体と息との間に在る隔たりが壊されなくてはならない。

自我(私)の壁を失い、私が息そのもの(息=私)に自分を明け渡すときに、初めて「息を感じる」と言うことが成り立つのである。感じている私と対象となる息とが区別のないものとなり、私が息そのものになるときに「息を感じる」体験が成立するのである。

大切なことは、息そのものによって私(自我)が吹き飛ばされ洗い流されることである。息を捕まえるのではなく、息の侵入に甘んじて、息によって私が占拠されることである。無条件降伏でもろ手を挙げて降参することである。

けれども自我(私)というものは、我がままで頑迷固陋である。ともかく、私に出来ることと言えば「息を感じる」ことを一生を通じて繰り返すことしかないのかもしれない。「叩けよ、さらば開かれん」である。あくまで、開くのは息の側の意志、自我の力ではないのである。

「私は息を感じられている」と思いこんでいたり「私は息に集中が出来ている」なんて考えていられるうちは、まったく駄目なのかもしれない。

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最近の「からだとことばといのちのレッスン」では「いきのレッスン」を大切にしています。おおざっぱに言うと、現代人は息が浅い。浅いままでいくら「こえ」や「ことば」のレッスンをしたところで意味がありません。息が浅いと、自分(からだ)の土台が据わらない。だから何をやっても不安定で頼りなくて力みが取れないのです。息の深さを育てていくのがレッスンを進めて行く上で、ひとつの柱になっているのです。

息が深いというのはどういうことでしょう。自分は腹式呼吸ができているから大丈夫という人がいます。けれどもそんな人に限って、実際のところは深い呼吸ができていません。狭い呼吸で良しとしているのです。

野口三千三さんが「からだまるごと全体」と言っていました。この言を借りていうならば、深い呼吸とは「からだまるごと全体で息(呼吸)ができている」と言うことです。喉や肺やお腹の他にも、手足の指先から頭の天辺までが息をしている。

先日とあるワークで、自分の身体に手を当てて息を感じてみるように指示されました。皆さん、お腹や胸や肩に手を当て始める。私はいきなり頭の天辺に手を当てたところ、周りの参加者から、そんな馬鹿なというような微苦笑を頂きました。どうやら指先や頭の天辺など呼吸とは関係ないと、皆さん頭の中で決めつけているようです。

そのため、指先や頭の天辺などの呼吸感覚が意識と繋がらず、脳に伝わることが無いのです。脳に書き込まれた常識にとらわれず、意識を頭や指先で呼吸に伴って微細に変化している感じに、意識を繋ぎ変えて行けば誰でも実感できることです。

逆からいえば、腹式呼吸や胸式呼吸という分類の中に呼吸を閉じ込めてしまえば、「からだまるごと全体で息をする」という発想や感じ方が、切り捨てられてしまうのです。

「からだまるごと全体」で深く広く息ができているとき――レッスンの中では床に腰を据えた、坐(坐禅)のポーズ(胡坐の姿勢)を利用しています――そのままいつまででも坐り続けていることができる程に、楽で気持ち良いと感じる人が多いのです。姿勢=「からだ」を支えるのは「いき」なのです。骨格や筋力では決してありません。

    *    *    *

普段の定例会、2~4時間という時間の中では、坐ることだけに十分に時間を使うことができないのが残念です。新年1月に滋賀琵琶湖畔で、2月には埼玉秩父大滝で、二泊三日のWS合宿を開催します。息の詰まる、息の浅く忙しない都会の雑踏を離れて、自然の中で息を深くして過ごしましょう。本当の意味での「ひといき」をつきに来てください。
ワークショップの詳細はホームページでご案内しています。
人間と演劇研究所ホームページ https://ningen-engeki.jimdo.com/

【Facebookへの前書き】
日本の伝統芸能や武術では「いき」(息・呼吸)を大切にします。「いき」が分かれば全てが分かってしまうようです。私などは牛歩の歩みで繰り返し時間をかけて、少しづつ息のことが見えてくる。私はまあ、名人になるよりも、「いき」のレッスンを繰り返すことで、僅かずつではあるけれど自分の人間観・世界観が豊かに深くなっていく。そのどこまでも続く過程が楽しくてたまらないようです。それにしても息のことを、言葉で説明するのは難しいものです。レッスンで実技を通して伝えることは簡単なのですが。
自分の「いき」など構っている暇がないほどに、人は、時代は、先へ先へと前のめりに突っ走っていますね。「いき」が浅いか深いかなど二の次の世の中。だからこそ置き去りにされた「いき」に戻れば、思いがけない発見が待っているのかもしれません。温故知新ですね。
寒くなりました。なにかと忙しない年の暮れ、ご自愛のうえ元気で新年をお迎えください。
「いき」をお忘れなきよう。
(せとじま・ばん)

テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体