2017年08月13日 (日) | Edit |
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 笛に息を吹き込み、私たちは音色を紡ぐ。

 「いのち」は息の「ちから」なのだから、「いのち」が私たちに息を吹き込み、音を紡ぐ。「私」自身を笛として、吹き手に差し出すのが歌を歌うこと。言葉を語ること。踊ること。

 吹き手は「いのち」、その息づかい。歌や曲や詩や踊りの言葉に伝えられた、太古から蓄えられた記憶の混沌=地球、大いなる「いのち」が吹き手、奏者だ。

 天地のいきが、あるいは、時空を超えた息吹が自在に私を吹き鳴らしてくれるよう、私たちは私たちの「からだ」を整え、「いのち」に明け渡す。私たちが良き笛になれば、「いのち」が闊達自在にそれを吹き鳴らす。「祭りだ。祭りだ!」

 なぜ歌うために、練習が必要なのか?言葉を語るために、技術を磨かなければならないのか?そんな必要はない!

 大切なことは、身に着けた無理=自然を支配としようとする自我の傲岸不遜をそぎ落とし、素直になればよい。謙虚になればよい。虚飾をはぎ落し、素直に真っすぐに吹き抜ける笛になれば良い。天地はそこに押し寄せ、我れ先に私たちと言う笛を鳴り響かそうとするだろう。

 イメージとは無形の存在である。だからこそ様々な音色に姿を変え、豊かに私たちの心を彩る。「いのち」はイメージの母胎である。私が私であろうとする、その我心は、私と言う笛が自在に鳴り響くのを妨げる。赤子の時のような柔和な笛に戻ろう。息をよく受け入れられるよう、「からだ」を開け放とう。

    *    *    *

 先日は、「こえ」の身体各部への共鳴・共振をひらくレッスンだった。眉間に声を響かせる。おでこ、頭頂、後頭部、口腔、喉、うなじ、胸、腹、脚、細かく見れば、もっとたくさんの共鳴部分(部位)があるだろう。声音に合わせて、様々に響きを奏でる「からだ」の豊かさ。様々な楽器に相当する響きを、私たち一人一人が「からだ」に備えている。ただし、備えているだけでは「からだ」は鳴り響くことがない。

 多くの人が、自分の本当の「こえ」を知らない。ありきたりの声を自分のものとしてしまい、果たしてそれが自分の「本当・本来の声」(=「こえ」)と呼べるものかどうか、自身に問う体験を持つ人はほとんどいない。声の問題に答えるレッスンはここから始まるのだ。

 身体各部、身体全体の共鳴を呼び覚ましていけば、その人なりの「こえ」が心地よく響き始める。無理な力みや緊張は必要がない。楽々安々と声を発することが出来るようになる。

 ただし、現代人は「からだ」の感覚が鈍い。意識(頭)ばかりが良く働き、「からだ」を省みることがない。容姿を整えるのは得意なようだが、容姿の内側、身体内部の変化に対する感覚能力は、厚ぼったいカーテン越しに眺めているようなものだ。

 声を出すときの「からだ」のこわばりを解き、「ほら、声の響きが変わったでしょう?」と問いかけても、何を聞かれたかと言うようにポカンとしている人が、案外に多いのだ。一緒になって、辛抱強く繰り返し聞き分けていると、「あっ!」という開けっ放しの顔になる。共鳴部位が変わることで、声の響き(音質・体感)が変わるのが分かったようだ。

 共鳴のポイントをひらいていくと、「からだ」の中が空っぽになったように感じられてくる。体表の輪郭は柔らかく繊細になり、声の振動を受け「からだ」の内側から外部に向かって「こえ」が自らあふれ出す。声を出そうとする意識と努力は、必要がなくなる。歌を歌い言葉を語れば、そのリズムと声音が「いき」の弾みを生み、目くるめく息の変化が、私たちの「からだ」を利用してイメージを花開かせる。

 天然自然から与えられたこの「からだ」。一人一人が異なる響きを持っている。それが響き合って互いを開放し、世界を生み出すのが、群読や合唱の喜びだろう。正確に音声を発することなど二の次のことだ。響き自体が、私たちの「からだ」を調律していく。

 声・ことばの響きは、私たちの「からだ」の深みに眠る共有のイメージを呼び起こす。感動を湧きあがらせるのだ。感動の海の中に人々を浸し、人と人との垣根を洗い流す。これは演劇もダンスも朗読もみな同じ。

    *    *    *

 「からだ」のこわばりを解き、共鳴のポイントをひらいていくと、「からだ」の中が空っぽになったように感じられてくる。体表の輪郭は柔らかく繊細になり声の振動を受け、「からだ」の内側から外部に向かって「こえ」自らがあふれ出す。声を出そうとする意識と努力は、必要がなくなる。「私が、声を出す」のではない。「声自体が、私の中から外界にむかって踊りだす」のだ。

 歌を歌い言葉を語れば、そのリズムと声音が「いき」の弾みを生み、目くるめく息の変化=「いのち」が、私たちの「からだ」を利用してイメージを花開かせる。

 天然自然から与えられたこの「からだ」。一人一人が異なる響きを持っている。それが響き合って互いを開放し、世界を生み出すのが、物語ることの喜びだろう。正確に音声を発しようと苦労することなど二の次だ。響き自体が、私たちの「からだ」を調律していく。

    *    *    *

 言葉を語ることへ、歌を歌うことに、人に話をするときでさえ、私自身は長年、言葉を語ることへの不自由さを抱えてきました。「自分でちゃんと話さなければ!」と、いつも思っていて、人と話すたびに「ちゃんと」がついて回っていました。「ちゃんと」=「正しさ」ですね。

 その「正しさ」はどこから来たものなのか。もともと自分の中にあるものではありません。家庭や学校・社会が言葉を話すことの「正しさ」を私に求め、その期待に応えることに、私は一生懸命になっていたのでしょう。意識(無意識)の中に、「正しさ」が刷り込まれていたのでしょう。また「正しくない」自分が、恥ずかしかったのでしょう。

 いまは言葉を語ることが、喜びへと変わっています。言葉を語る意識的な努力をする替わりに、言葉が自由に活躍できるよう、自分の内側から溢れる言葉に「からだ」を明け渡すことが出来るようになったからです。「ことば」自体が、自意識に縛られることなく、「私」を語ってくれます。「ことば」のおかげで、他人との交流によって「私」が豊かになっていくのが分かってきています。

 「先立つものに心を砕け、結果は自ずから生まれるだろう。」ロシアの演出家スタニスラフスキーの言葉です。結果(舞台上の成果)は「自ずから生まれる」つまり、「どこからともなくやってくる」ものです。私たちに出来ることは、それがやって来てくれるよう、状況を用意することです。「先立つもの」とは「からだ」です。「からだ」を耕し調え、天に祈りつつ「ことば」の訪れを待つ。農耕の時代に還ることのようですね。


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2017年07月27日 (木) | Edit |
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合宿を終えて、参加メンバーが感想を書いてくれました。
私(せとじま)がFacebookに投稿したものも、合わせて掲載させていただきます。

【琵琶湖合宿を前に】(せとじま・ばん)
「あなたの時間を手渡すつもりで、相手に関わってください。」とレッスンの中で話しました。次から次へ、先へ先へと、人と人とのかかわりが、とても忙しくなっているように感じています。
手際よく短かい時間の中で結果を出さなくてはならないと、多くの人が思い込んでいるのでしょう。それが「からだ」=行動に現れている。相手のために義務を果たそうとして、息を詰めて頭の中のプランをこなし、忙しないことこの上なしです。
相手の表層を次から次へと滑っていくような、人と人との関係が見えてしまいます。
相手の「からだ」からは「何もしてくれなくていいから、ゆっくりと一緒にいてください」という内心の声が響いているのですが。
日本語には「日にち薬」という言葉があります。「日にち」=時間というのが、何よりの薬であり栄養でありちからなのだと言うことでしょう。
エンデの「モモ」は、何も持たないけれど、時間だけはたっぷり持っている少女のお話です。時間は、与えれば与えるほどに湧いてくる泉のようなものかもしれません。
琵琶湖の他には何にもない地、和邇浜での二泊三日の合宿ですが、琵琶湖は歴史の時間の堆積でしょう、琵琶湖の湖水も力を貸してくれるのです。
レッスンは、個人の「からだ」中にこわばりとして眠っている時間のエネルギーを開放します。それを「いまここ」に集めて、生きた「物語」の時間を再生するのです。
こんなことを書いていると、合宿がとても楽しみになってきます。
まだ3名ほどの空席があります。どうぞ遊びに来てください(笑)

【琵琶湖合宿を終えて】(せとじま・ばん)
先日、二泊三日の琵琶湖合宿、参加者全員で舞台を立てて、賢治童話「鹿踊りのはじまり」を読みました。賢治さんの「ことば」の力に改めて関心(感心・歓心)しました。物語の「ことば」が、それを語る私たちを夢幻の世界へと引き連れていきます。人と人とのつながりを阻む壁=自我・身構え・緊張を超えて、皆が一つのいのちを生き始めます。そこに物語の光景が色とりどりに浮かび上がってきます。それは一人一人の「いのち」の中に秘められた彩りでもあります。これが「からだとことばといのちのレッスン」の向かうところ、祭り(祝祭)の創造です。普段の定例会は短時間の繰り返しではありますが、一人一人が日常という頸木を超えて「いのち」の自由の中に、一歩を踏み出して行ってほしいと私は願っています。

【まるで音楽だった】(こいさん)
「からだとことばのレッスン滋賀合宿」が終わった。竹内レッスンと野口体操がベースにあるレッスン。
今回は二日目からの参加。午前中、からだを揺らしてストンとその輪郭を確かなものにし、宮澤賢治の「鹿踊りのはじまり」を10数名のみなさんとともに声に出して読んでいった。
一場面、一場面、情景が立ち上がってくるかを丁寧に確認しながらの朗読。登場人物を立て、どこをどう動くかを確認し、読んだ最中、その情景は浮かんできたか、舞台上の出ている人が繋がりあっているか、そういう作業を進めるうちにバラバラだった声にリズムが生まれ揃ってくる。
賢治の文章は音楽だ。
ことばを発して場のリズムが動いてくる。
作品中、百姓?の嘉十(賢治ではないだろうか)は、突然、鹿の声が聞こえて、鹿踊りを目撃する。
嘉十視点から鹿踊りをみていて、何ともおかしく、そのかけあいに笑ってしまう。
そして鹿になって踊り歌う。
踊って踊って鹿になっていく。
鹿になって、ぐるぐるまわり、歌を歌ったその時に、はっきりと「ぎんがぎが」にまっ白な火のように燃えたすすきの情景がみえ、北から吹く冷たい風を感じた。
何度も何度も声に出しながら、ことばに出会っていく。
最後の一列に太陽を向いて歌った六匹の鹿の歌にふるえた。
ふりかえりの時間に「一緒に読んだみんな、お互いに命に触れ合ったんだね」と言葉をおくっていただいた。
この場所では、自分たちにはすでに素晴らしいものがそなわっているという前提がある。足りない自分であり稽古をして技術を身につけていく。ということではなく、本来もっている素晴らしいものをどう引き出し立ち上がらせていくかというレッスンだと感じている。
その過程で、自分自身や他のみなさんの声やからだに出会っていく。これはあったかくて勇気が出る。
みなさん、二日間、ありがとうございました。

【雨ニモマケズ】(きよさん)
雨ニモマケズ 風ニモマケズ…
昨日は、今回で3回目となる、からだとこころといのちのレッスンに参加しました。
琵琶湖で泳ぎ、楽しんで人たちの声を背にして、私も泳ぎたいという気持ちをおさえつつ、築30年以上は超えているであろう、昔懐かしい日本の畳の部屋にて、9名の参加者のみなさんと、行われました。
からだに意識を向ていく
頭、腰、背中、腹、足の裏…
普段どれほど感覚は無自覚なんだろうか…
そして、いきを吸い、いきを吐く。
その度に、少しずつからだの感覚が研ぎ澄まされていく。
また、微細な振動が全身に広がっていく。
そうしたことを繰り返していくうちに、気づくとからだはゆるんでいる。
気づくと、なぜか、こころもゆるんでいく。
初めて会う方なのに、なぜか、安心し、ゆだねている自分に気づく。
とても不思議な感じ。
そして、からだから、声を発する。
力んでいては、何も響かない。
肩が上がり、緊張がからだを走る。余計に響かない。
すーっと、力を抜き、足の裏で呼吸をするように大地とつながり、頭の先はひっぱられているような感覚で、天とつながる。
不思議と腹から声がでる。
いや、出るんじゃない。なんか、なんか、あふれて出ていく。
まるで私の声じゃないかのように。
そんな状態で、雨ニモマケズを朗読する。
最初はうまくいかない。いつもの癖が出てくる。
さらけ出す怖さ、何かが自分を留めている。
一生懸命やろうとするほど、うまくいかない。
腹に意識をおき、腹から声を出す。

なんか、なんか、違う。
からだをつつ抜けるかのごとく、声が響き渡る。
気持ちいい感じ。
わたしのいのちがよろこんでいる。
そんな不思議な感じ。
からだとことばといのちが紡ぎあう。
何ともことばにし難い。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

【ひととき】(かつこさん)
朝、起きると、山登りしたあとのようなふくらはぎのけだるさ➰あっそうか、鹿になって、野原を飛んだり、跳ねたり、踊ったりしたなぁ~
一昨日、人間と演劇研究所の瀬戸嶋伴さんによる、“からだとことばのワークショップin琵琶湖”に参加してきたのでした。
からだ…ってなに?
ことば…ってなに?
日常の中では置いてきぼりにされるからだ感覚とゆっくりと向き合っていく。
ゆれる、ながれる、あったかい、からだとの対話が始まる。
そこから、ことば・・・ ゆるやかなからだから発せられる声は響き合い、徐々に息づいてくる。ずっしり、どっかりと、すっきりと。
宮沢賢治の物語を読み演じていくと、私とからだとことばとを繋ぎ、その場に生をいれてくれるのでした。
意図せず、つながりあう、響き合う、独りでは決して味わえないひとときでした。
みなさんに感謝です。

【その後】(かつこさん)
ほんとに暑い夏ですね~✨蒸発してかげろうにでもなりそうです(笑)
伝達事項はFB やってない者ふたりいますので私が伝えますね。
2回合宿参加して、瀬戸嶋さんのこのWS の素晴らしさを感じています。
からだとことばとの繋がりと賢治の世界の中に引き込まれたとき、人と人の間の防衛?緊張?の壁がいつの間にか外れているのに気づきます。
ほんとにどっちが現実なんだろう( 。゚Д゚。)と思うくらい楽しくなります。
それが、少し伝わっているのか、そこに気づく人が周りにいるからなのか➰もっと、振動していきたいなぁと思います🎵

【以上感想です】

「からだとことばといのちのレッスン」は大変シンプルなものですが、どうしても言葉で説明することが難しいのです。こうしてメンバーの感想を並べていくと、各人の体験と感想に包み込まれるようにして、レッスンの姿と息づかいが浮かび上がってくるように思います。以前、詩人の方のお話を聞いた覚えがあるのですが、「詩情(ポエジー・リアリティー・詩魂)と言うのは、手を出して直接に掴もうとしてもダメです。詩の言葉でそれを柔らかく包み込むようにして、表現するのです」と言っていました。どうやらレッスンも説明的な固い言葉では捉えることが出来ない、いのちの風の舞い踊る時空のようです。

賢治さんの物語が湛える深いリアリティーに触れるのには、私たち一人一人が自分と言う言葉に捕まえられずに、どこまで手ぶらになって物語の言葉を発し、生きることが出来るかどうかにかかっているようです。

「私(せとじま)がやるのでではなく、レッスン自体がレッスンをするのが、レッスンである」「いきなりとは息生りである」など、二泊三日の合宿で、なんとも不思議な言葉を発見しましたが、これはまたの機会に文章にしたいものです。

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2017年06月18日 (日) | Edit |
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  「からだとことばといのちのレッスン」

 「からだ」と「ことば」の成り立ちを、「いのち」の側から考えていかなければならないときが来ているように思います。

 私たちは、人間(自意識)の側から「いのち」を見、「いのち」について語ることを当然のこととしてきました。

 そこには、私たち人間自身も、自意識も含めて「いのち」の現れであるという考えが、抜け落ちています。「いのち」は自意識に従うものと見られているのです。

 このような見かたが、「いのち」の可能性を、限られたものへと落とし込み、未来への不安と閉塞感を生み出しているように思います。「いのち」への信頼感の上に安心や喜びは成り立つはずなのに、自意識がそれを許さないのです。

 自意識を中心に据えた人間観に頼ることは、いまでは限界を迎えているようです。自意識がその座を「いのち」に譲るときが来ているように思われます。

 「いのち」とは、絶え間なく変化し続ける働きです。そのために「いのち」は、目で見ることも、耳で聞くことも、鼻で匂いを嗅ぐことも、舌で味わうことも、手(からだ)で触れることもできません。意識(ことば)で捉えることもできないのです。

 ここに「いのち」に関わることの難しさがあります。自意識は眼に見え(想像・観念・妄想を含む)、あるいは手に触れる得るものを基本に置いて、ものごとを理解しようとします。ところが「いのち」は、そのような捉え方の網の目にはかからないのです。

 おそらく、これまで常識としてきた、自意識中心のものの見方や考え方とはまったく異なる、「いのち」とのかかわり方を、これからの私たちは見出して行かなくてはならないのでしょう。

 その答えは、どこか自分たちの生き方を離れたところにあるものではないようです。表層的な自意識の眼差しに覆いに隠された、私たち一人一人の中に生きて働く「いのち」の在りようを真摯に見つめることが、これからの始まりのように思っています。

    *    *    *

 「からだとことばといのちのレッスン」は、林竹二・野口三千三・竹内敏晴の実践に多くを負っています。すでに皆、故人となりましたが、「いのち」の側から人間の在り方を問い続けて一生を終えた、私の師匠たちです。

 野口体操では『からだに貞く』(野口三千三著書名)と言います。
「貞(き)く」とは、「いのち」に尋ねることです。「人間には、ものごとの良し悪し(真理)を決める能力は与えられていない。ただ、問い続けることだけが私たちに許されることである。答えは、真摯な問いかけ(貞く)に応じて、「いのち」の側から与えられる。」との考えが、野口体操の実践を貫いています。「からだ」の動きを身体内部の感覚やイメージの変化としてとらえ、「からだ」の動きの本質をくり返しあらたに問い続けることが、野口体操の実際です。「いのち」に寄り添う体操といってよいと思います。

 竹内レッスンでは『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴著書名)。
「劈(ひら)かれる」とは、「いのち」の側からの促しによって、自意識の壁を超えて、あらたな自分が表現され、芽吹き生き始める。竹内敏晴は、「竹内からだとことばのレッスン」に於いて、「いのち」の直接の(直(じか)の)現われとしての「からだ」と「ことば」を終生かけて求め続けました。竹内は「いのち」への信頼を、絶対的に肯定していたのです。

 林竹二は、『若く美しくなったソクラテス』(林竹二著書名)。
ソクラテス、プラトンの哲学者・教育者として教育の問題を考究し、子供の「いのち」の可能性を問い、自ら日本各地を回り授業実践を繰り返しつつ、教育や教師の在り方に変革を求めた人物です。教えるものと学ぶものと間に成り立つ「いのち」の受け渡しを「若く美しくなった」と表しています。

 師匠たちとの出会いから36年の日々が流れました。1988年に私は師から独立し、人間と演劇研究所を立ち上げ、彼らの実践に学びつつ、これまで「野口体操」と「からだとことばのレッスン」の指導を続けてきました。

 来年には人間と演劇研究所創立30周年を迎えます。師匠たちの「いのち」から私の「いのち」へと受け渡された課題を明らかにすることに、30年の日々を費やしました。師匠たちの「いのち」の風に後押しされながらこれまで進んできましたが、遅れ馳せながらようやく私の中から「いのち」への眼差しが劈かれたようです。これからは「からだとことばといのちのレッスン」の名称のもと、この時代の中で、私なりの新たな実践の道を歩み始めることと思います。

    *    *    *

 「いのち」とは、「い」=いき・息・生き・活き、「ち」=ちから・地・血・霊力などの意味を合わせ、「いき」の「ちから」を表す日本語です。「からだとことばといのちのレッスン」は、「いきのちから」=「いのち」の現われとして「からだ」と「ことば」をとらえています。

 実際には、姿勢と「いき」の関係を大切にしています。「からだ」のこわばり(緊張)をほどき、「いき」の変化に繊細に反応し、自在に変容する「からだ」=「姿勢」を準備する。(野口体操‐いきと姿勢のレッスン)

 「いき」の赴くままに「からだ」を動かし、自意識を介さない「からだ」から「からだ」への直接の「うごき」のコミュニケーションを体験する。(野口体操‐流れあいのレッスン)

 「からだ」の隅々まで「いき」を通し「声」を発し、「いき」=「こえ」を体感する。(竹内レッスン‐からだと声のレッスン)

 「ことば」で他者と触れあう、響き合う。「いき」の深さと広がりの中に、他者の「からだ」に共鳴し感情やイメージを伴って現れきたる「ことば」と出会う。(竹内レッスン‐呼びかけのレッスン)

 コミュニケーションを、自分と他者(あるいは物)との「いのち」の流れ合いととらえれば、「からだ」と「ことば」に関する様々な出来事が、レッスンとして取り上げることが出来ると思います。日常的な料理や掃除・家事一般衣食住、学び、健康、スポーツや武道も、踊り、歌、祭りも・・・。「いのち」の側から見ることで、日常の生活や学びが新たな意味を帯び立ち上がってくることでしょう。

 「からだとことばといのちのレッスン」は、当たり前のことを日々当たり前に生きるためのレッスンです。日々当たり前のことの中に「いのち」の喜びを見出し、生きていること自体の静かな豊かさを発見していくレッスンです。「いのち」を主体として生きることの意味をみんなで問い続けて行きたいと、私はそう思っています。

 2017年6月16日
 人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充・ばん

【ブログを更新しました】(Facebookコメントより)
瀬戸嶋充・ばんの旅立ちの宣言です。脳・神経系、つまり自意識が主導権を握っているから、世の中おかしくなる。「いのち」に立ち返り、新たな道を見つけていこう。私の反骨精神のあらわれです。

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テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体
2017年06月05日 (月) | Edit |
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 竹内敏晴研究というブログを立ち上げたのですが、記事を書くのに四苦八苦しています。簡単に言えば、竹内レッスンは言葉になる以前の「からだ」をテーマにしているからです。私たちはおおよそ、言葉にならないものは、存在しないことと同様のものとして扱っているようですが、そんなことありません。

 むしろ言葉にならない世界の方に、私たちはより多く支えられ促されて日々を過ごしていると思います。そのような言葉にならない世界でのことを、私は言葉にしようというのだから、無茶な話ですね。とうぜんレッスンの中での、私の個人的な体験から書き出していくしかないようです。

 母音「あ」の声を出すレッスンがあります。からだの緊張をほどいて、「からだ」の中の道筋(通り道)を開放する。声を出すと、「からだ」から明るい「あ」の声が、堰(せき)を切ったようにあふれ出してきます。この時に「こえ」を出そうとする努力や頑張りは一切必要ありません。あまりのあっけなさに、声を出した人は茫然としています。周りで見ている人も、眼をまるくして声を失っている(笑)

 ふつう一般に、声というのは緊張して努力をしなければ出ないと思い込んでいるのでしょう。人前で声を出そうとする瞬間に、のどに力を入れて声帯を絞めたり、大きく息を吸って胸を持ち上げたり、顎を上げたり、気を付けの姿勢をしたりと、声を出すためには、先ず緊張ありきが常識になっているようです。

 私から見れば、このような緊張(身構えと言います)が声の出なくなる原因です。声というのは声帯の振動が、「からだ」全体に共鳴して響きだします。声帯の振動だけでは耳に聞こえる音にはなりません。ギターの弦の振動がギターの胴体に伝わって、音色を響かせるのと一緒です。弦(声帯)だけを取り出して爪弾いて(震わせて)も音は出ません。

 声が良く出るためには、弦=声帯をいじるのではなくて、からだ全体が楽器のように良く共鳴するよう、からだのこわばり=緊張を取り払ってやれば良いのです。

 縦笛を、人間のからだと考えるとわかりやすいと思います。笛は中空の管です。それが折れ曲がったり塞がったりしていては、笛の音は響きだすことができません。人間の場合も、足裏から天頂へと、中空の管のように、からだの中の空間が吹き抜けていて、姿勢は柔らかく張りをもって支えられている必要があるのです。その時「こえ」は、心地よく楽しく響きだします。

 「からだの中の管?」「空間が吹き抜ける?」と、不思議に思われるかもしれませんが、このような感じ方は、レッスンの中で実際に成り立ちます。野口体操ではこのようなからだの感じ方を大切にしています。竹内レッスンではこのようなからだの感じ方、在り方を基本にして、声・ことばのレッスンをしています。これは体験することでしか、分かる、つまり言葉にすることが出来ないことなのです。

 さて、管を折り曲げたり塞いだりして、声の響きを閉ざす原因は、からだの強張り(=緊張)です。声を出そうと努力し緊張することも「からだ」を強張らせ、声が響きだしていくことを妨げます。このような緊張(発声への身構え)を取り去っていけば「こえ」があふれ出していきます。

 ここでまた不思議なことですが、「からだ」という笛(管)を、吹き鳴らすのは「誰か」という問題が出てきます。意識の指令よる緊張努力によって声が出ると思い込んでいるうちは、声を出すのは自分だと決めつけられる。ところが良く声が出ているときには、自分が声を出しているという実感がないのです。「こえ」自体が、自分の「からだ」の中から、他者あるいは周囲に向かって溢れ出していることは意識できるのですが、自分が声を出しているという実感は消え去ってしまうのです。

 まるで「こえ」という実体(生き物)が、からだの中に住み込んでいて、門(緊張・強張り・自意識)を開けば、「こえ」自らが勇んで外界に向かって飛び出して行くようなありさまです。家主の私(自意識)は「こえ」が出ていくのをただ見送っている、そんな感じです。からだを吹き鳴らすのは「こえ」自体なのです。

 野口・竹内の実践の延長上にある発声レッスンとは、このような「こえ」との出会いを基本にしています。発声の主体は「こえ」自体にあり、私(自意識)ではありません。私自身の意識的な指令による緊張は「こえ」の現われを妨げるのみです。平たい言い方をすれば、「よく声が出るためには、自意識のチョッカイを如何にして辞めさせるか」それがレッスンの目指すところとなります。

 「こえ」が主人で、従者は私の自意識です。ふだんの関係の逆転です。「こえ」が自由に溢れ出すために、自意識は「こえ」に道を譲るのです。その譲り方を学ぶのが「野口体操」と「からだとことばのレッスン」です。
 では「こえ」は、「どこから」私のもとにやってくるのか?あまり突っ込んで考えるのも無理があるので、「こえ」とは「いのち」の現われであると、私は言っています。それが分かったからと言って、声が出るようになるわけではありませんから。繰り返し声を出すことで、主導する「こえ」自体の働きによって、知らぬ間に私は導かれ劈かれて行くのです。

 「こえ」に道を譲る。この道は「いき」の流れる道でもあります。「こえ」を出す(ひらく)ことで「いき」の流れによって、地から天へと姿勢が調えられていきます。地と天との間を往還する「いのち」(いきのちから)の流れが、私を超えて他者や環境と交響します。その延長に、物語の世界を「こえ・ことば」を通して語ることが、私を待っています。

    *    *    *

 自分の声のことで、苦労をしている人が案外多いように思います。ボイストレーニングや発声法の本が書店の本棚を賑わしているようです。それらは「良い声」またはその「出し方」を学ぶことが基本になっています。私はこの考え方に疑問を持っています。誰もがその人なりの「こえ」を持っている。それは、工夫して作りだされるものではありません。もともと持っているのですから、それを開放してあげれば良いのです。

 何らかのテクニックをもって、自我(自意識)の命令で自分を作り変える。あるいは思い通りの理想の自分になる。自己実現と良くいいますが、このような考え方を私は信じていません。

 本来より持ち合わせている個性。それは自分の中に住みこみ、表現される機会を待っています。そしてその個性は無限に変化を繰り返すことで、時間をかけて自己を明らかにしていく、「いのち」の現われとしての自分です。個性とは自分で作り出すものではありません。「いのち」の風に促され、磨かれ立ち上がってくる私の姿です。

 「こえ」に道を譲る、と書きました。西洋近代における合理主義的な生き方に、このような発想はないでしょう。すべてに「私」(=自分・自我・自意識)が優先されます。その「私」を「いのち」の働きに譲る、あるいは明け渡すというのは、自分を失う恐怖をともなうことでしょう。

 ところが日本や東洋の伝統は、「私」を失うことに価値や意味を見出しています。凝り固まった自我を手放さない限り、世界の本当の姿が見えてこない。当然、本来個性的である自分をも見ることが叶わないのです。

    *    *    *

 竹内レッスンも野口体操も、教えることや学ぶことの根に、このような東洋的なものの見方考え方を持っていました。意識の表層を蔽う固定したものの見方考え方を剥ぎ取り、内在するリアリティー(本質・真実性・いのち)へと出会いを深めていくやりかたです。それは何かを加え積み重ねて、あるいは微に入り細に入り物事を突き詰めていくやり方ではありません。何かへのしがみつきを、次から次へと引きはがしていく方向です。言葉になる以前のところに集中し、繰り返し新たに道を見出していく作業ですから、言葉で説明するのが難しいのです。

【以下Facebookのお知らせより】
この度「竹内敏晴研究」という共同のブログを立ち上げました。竹内敏晴に影響を受けた、様々な人たちの記事をブログの中に放り込み、そこから何が生まれてくるかを観てみたいと思ったからです。私も世話人として記事を投稿しなければと思いながら、実際のところは記事を書くのに四苦八苦をしています。自身のブログを書くのでさえ、暗中模索の連続なのに、さらに竹内にまつわる記事を書く!!!しばらくは、どちらのブログにも同じ記事が並びそうです。お許しください(笑)
「竹内敏晴研究」世話人は3名、元竹内演劇研究所スタッフの三好哲司、卒論を書くのに様々な竹内関係者をインタビューして歩いた八木智大、そして私(せとじま・ばん)です。
「竹内敏晴研究」ブログは、投稿のテーマを決めていません。竹内に会った人、本を読んだ人、ご自身の興味で、記事を投稿していただければと思っています。
ブログは http://takeuchi-toshiharu-kenkyu.blogspot.jp/ で、ご覧いただけます。投稿をしていただける方がいらっしゃいましたら、takeuchi.toshiharu.kenkyu@gmail.com 瀬戸嶋宛にご連絡ください。
(瀬戸嶋 充・ばん)

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2017年05月22日 (月) | Edit |
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 世間がミレニアム、2000年紀に沸いていたころのことです。

 私は、鈴木大拙さんの著作に出会いました。彼は、明治時代に米国に渡り西洋の人たちに仏教書の翻訳や禅の紹介をした人物です。私が読んだのは、禅や日本文化について英文で出版されたものを、日本語に翻訳したものでした。

 読んでいると、なにか心にスッと入ってくるものがある。内容を理解しようとしても、意味が分からないところが多々あるけれど、自分の解釈を挟み込まずに、ただ字面を追うように読んでいると、感動して涙が出てくる。ああこれだ!これだ!と文章に頷いたり、読みなれない漢文に居眠りをしたり。心が強く動かされました。

 なんでこんな文章に、自分が感動しているのか、全く見当がつつきません。読みなれない文章が多く、そもそも意味がほとんど分からない。

 大拙さんの英文を、日本語に訳したことに意味があるのだろうと私は考えました。彼は、英米文化という、日本とは全く異なる文化の中に、東洋思想並びに禅と日本文化を伝えてきました。明治時代にサンフランシスコの地で、お経や道教の文献の翻訳をして過ごしたのです。近代合理主義の西洋社会の中で、西洋の言語をもって、一見、前近代的と見られる東洋の思想(=ものの見方と考え方)を伝えようと奮闘した人です。

 西洋人に理解できるよう、彼らの論理や思考(言語)に則って著わされた文章が、月日を経て日本語に翻訳され、私の手元に届いたのです。それを読んで私は感動している。

 本の中で語られる日本の文化は、意識を介さずに、私の感性へと直接に訴えてきました。それに比べて西洋由来の文物は、壁を隔てて無理やりに自分のものにしなければと、いつも努力を自分自身に強いていたのでしょう。自分のものの見方考え方が、いかに西洋化して(されて)いたかを、このとき思い知らされたのです。

 (野に咲く花は言葉少なに春の訪れを私に告げてくれる。
近代的な知と技術によって品種改良を重ねた大輪の花は、私に大きな声で訴える。
私の美しさはあなたの物ですと語り掛けるよう。
大輪の花は、私の意識に訴える。私の脳に刻印を与えるかのように。
野に咲く花は、私の中にいつの間にか入り込み、揺れて微笑む。)

 これまで長らく、人生の中で抱えてきた違和感の正体が見えてきたような気がしました。西洋列強による世界の近代化・植民地化がもたらした文化の移入による変化は、私という存在を内と外(深層と表層)に分断してしていたことがわかりました。

 世間によってこれが素晴らしいと価値を認められるものが、私にとって大切なものとは思えない。高度経済成長と軌を一にするようにして育ったにも関わらず、私はその時代を牽引する西洋由来の価値観(合理主義)を受け入れられずに来ました。あるいは、それを自分とは関係のないもののように感じながら、これまで過ごして来たのです。大拙さんの著作を読むことで、西洋由来の思想や文化に価値を見出すことができずに来た自分を、発見することができたのです。

 その後、3年がかりで大拙さんの全集33巻を読破しました。相変わらず理解は届かないけれど、仏教には、私の心に直に触れてくる「何か」があると感じていました。実際に「坐禅会」に参加してみたこともあり、そこには私が子供のころから、学校や社会から学び学ばされてきた、ものの見方考え方とは全く異なる世界観があることを体感し、理解をしはじめました。

 とくに日本文化を支える大地性と身体性が、私の中に浮かび上がってきました。そしてそれまでずっと掴み切れずに来た、竹内敏晴・野口三千三の両氏が語る、「からだ」(漢字の「身体」ではなく、ひらがなで「からだ」と語る。「野口体操」と「竹内レッスン」のキーワードです)の意味が、おのずと観えてきました。

 それまでは、彼らの語るところを、私の意識の表層にのっかっているだけの、自分の中に根を張ることのない知識で理解しようとしていました。それは骨格や筋肉など近代解剖学の知見に基づいた「身体」への理解、物理科学による運動論、生化学からの医学的身体観、心理学の知識、等々、私が無自覚に頭に詰め込み、身に抱えていたものです。

 (私は物理科の大学を出ています。子供のころから大学を卒業するまでに、人並みに一生懸命そんな科学の知識を身に付けてきたのですが、まあ、「馬子にも衣装」みたいなものですね。馬子には馬子の生き方あるはずなのに、衣装が独り歩きしていたように思います。)

 以来、西洋由来の近代科学的な見方や考え方に囚われず、直接に「からだ」を観ることが始まりました。知識を介さずに直接に自他の「からだ」に関わることへと、道が開けたと言えます。そしてその足取りを導くように、仏教や東洋の考え方がレッスン実践への、行き詰まりを解いてくれる。仏教の考え方は、仏さんが答えを出すのではなく、自ら答えを求める者のダウジングロッド(方向指示器)みたいなものです。「そっちではないよ。こっちだよ。」と暗黙の裡に静かに語り掛けてくれていました。

 以来、私は自分の中に詰まった、近代的なもの見方や考え方(意志や頭脳の能力を第一義とする)を疑い、自分にとって一つ一つ確かめては手放して行くことをしてきました。その呪縛を一つ一つ切り離しては、自由になっていった、自分に還っていったともいえそうです。そのことで仏教の考え方の意味が身に染みてきます。自分の深層に隠されていた仏教の持つ考え方(感じ方)が浮き上がってきて、新たな観点が生まれてきました。

 竹内レッスンも野口体操も、西洋から移入されたものではありませんでした。私の師匠、竹内敏晴は江戸の名残の多い下町に育ち、学生時代は弓の達人でした。彼の度外れた集中力は、弓道で培われたものです。野口三千三は群馬の農家の出身です。彼は土に育まれ、近代体育を極め、それを超えて独自の体操を編み出しました。彼らのレッスンの実践と思想は、日本の風土、大地性を離れては成り立たないものです。

 それを私は、常識的な西洋的知見によって理解をしようとしていた。そこに、そもそも無理があったのです。

 こう言ってしまうと、西洋思想の価値に対する否定になってしまうかもしれません。もう少し丁寧に言うと、西洋思想を手放したといっても、それが消えてしまうわけではありません。生活していくために、世を渡って行くために、合理主義的な考えを理解することはできるのです。手放すとはしがみついていた手を放すことです。それに縛られない。思想や価値観に縛られないということが大切だと今では思うのです。様々な思想や価値観を持っていることに問題はないのですが、それに縛られてしまうと、物事を直接ありのままに見ることができなくなる。

 戦後の教育によって、西洋由来の思想や価値観が、絶対のものとして無自覚のうちに私の頭脳に刷り込まれ、私自身がそれに縛られて、合理主義的意識のフィルターを通してしか、物事が見れなくなってしまっていたのです。そこには自縄自縛があって、物事の本質をありのままに見る自由が、奪われてしまっていたのです。

 また、せっかく自分の中から育ちゆく個性的な考えがあったとしても、一般的常識的な価値観がその表現を阻害してしまう。これは東洋思想、もちろん仏教についても同じことです。それが縛りになって、現実を直視できなくなっては何の意味もないのです。

 多様な価値観という言葉が流行っていますが、多様な価値観を認めるということは、そう思う一人一人が、自分の思想や価値観の呪縛(しがみつき)から自由になるということがポイントではないかと思うのです。これは、キリストもブッダも同じことを言っているかもしれません。

    *    *    *

(以下Facebook補足のコメント)
【ブログを更新しました】
「自由」って何だろう。鈴木大拙さん曰く「今一般に使われている「自由」という日本語は、英語の「freedom」あるいは「liberty」からの翻訳である。どちらも「何々~の自由」つまり束縛するものが前提として在って、その束縛からの「自由」が「freedom」あるいは「liberty」である。けれども日本語の伝統や仏教の中の「自由」という言葉には、束縛・拘束からの解放というニュアンスは入ってこない」とあります。「自由」とは「自ずからに由りて」とも書いています。この「自」は「自我」つまり「私」ではない。「いのち」の働きそのもの=「自(おのずから)」に由りて、生かされ行動していくのが日本語の「自由」だと言っています。これは日々「いまここ」を生きることでもあるようです。私の師匠たち(野口三千三・竹内敏晴)は、「からだ」は「から(空・無・虚)」「だ(た・たち・立・経)」だ、などと言っていました。「身体」=肉体・ボディーではなくて「からだ」。これも「いのち」の働きを前提としています。それでは「いのち」とは何を表す言葉なのか?一つ一つの言葉の定義を見直していくことの重要性を強く感じています。そうしないと形骸化して中身の得体のしれない言葉が飛び交って、人間のつながりがが切り離されていく、そんな危惧を感じている今日この頃です。(せとじま・ばん)


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2017年05月12日 (金) | Edit |
2017-04-18 001ed

 逆から言えばわかりやすいと思いますが、新宿の雑踏を行く人たちの姿を見ていると、ほとんどの人が、意識が胸から上に揚がってしまっている。腰から下、下半身への意識がなくなってしまっています。

 道行くその姿は、隙を見せぬかのように、息を飲み込み胸と喉を詰め、顎を持ち上げ、まるで胸像が互いに人ごみの中を行き交っているような有り様です。意識を総動員して上半身で自分を表現しているのかも知れませんが、足腰は自動ロボットのよう。足元に個性や性格などありはしないしないと言う塩梅です。
 様々な履物に足を包みながらも、どれも同じような表情の足。足は物体としか見ていない。生き物ではない。ギクシャクとした足取りなど、誰も問題にしていません。足腰のことなど老人の問題で私には関係ないとでもいうように、街中を闊歩している姿が目につきます。

 前置きが長くなりましたが、新宿の路上を行き交う人の意識の置き処(自分)は、胸から上になってしまっているのです。時代の成り行きで仕方のないことかもしれませんが。

 この頃は「いきと姿勢のレッスン」を大切にしています。意識が上に揚がっているのだから、それを下半身に下げる練習です。
 胡坐(あぐら)をかいてお尻に座布団を敷きこんで、臍の下あたりに意識を置きます。
 息の出入りに伴なってお腹の中身が変化しています。内圧の変化というと難しいかもしれませんが、息を吸うのに伴って横隔膜が下降し、お腹の中の気圧が高まります。吐けば気圧が低くなる。

 お腹の皮が張ったり緩んだりで、誰にでも分かることですが、表面的な皮膚の伸縮運動よりも、お腹の中の感じが変化することに注意を向けることを大切にします。
 骨盤に囲まれた空間は、後ろは仙骨、横は腸骨、お腹の前側を囲む骨はありませんが、盤とは器ですから、恥骨や座骨も合わせて、ワイングラスの底のように骨盤は胴体の中身を下から支えているわけです。

 骨盤の中身の変化に注意を向け、呼吸に伴う骨盤の内側の微かな動きを感じてみます。基本はこれだけです。
 姿勢は頭蓋骨のてっぺんの蓋を開けて、上からのぞき込むと、からだが柔らかい管になっているようなつもりで軽く姿勢を支えます。

 あくまで大切なのは、呼吸(いきの出入り)に伴う、骨盤の中身の微細な変化に着目することです。できれば臍から下の骨盤に加えて、足・脚・床の下まで注意を広げてみます。
 「いき」に意識を向けていると、面白いことに脳が抵抗を始めます。
 「どうやって息をすれば良いのか?」「このやり方で良いのだろうか?」「息が苦しいのだけれどどうしたら良いのか?」「こんなことして何の意味があるのか?」「今晩のおかずはどうしよう?」「腰が痛い、膝が痛い、足が痛い、鼻が詰まる、息ができない」「眠い」「気持ち良い!」「光が見えた!」「これは素晴らしいことだ!」「宇宙がイメージできる!」・・・。
 書き出せばキリがないことですが、これらは全て「いき」の微かな変化に意識を向け続けようとするとき現れてくる、脳が意識に介入しようとして見せる妄想です。

 脳は、意識が「いき」に向かうことを嫌うようです。集中を妨げようと、ありとあらゆる幻想を見せてくれます。
 まあ、妄想だからといって毛嫌いすることはありません。ただ、問題となるのは、妄想に意識を捕らわれているときには、「いき」の変化への注意がおざなりになってしまっていることです。

 子供の我儘に耳を貸さずに、大人が大事な用件に注意を向けるのと同じです。妄想は脳の我がままですから、自分がその雑音に捕らわれていることに気が付いたら、お腹の「いき」に意識を戻せば良いのです。これだけ!

 なのですが、脳(自意識・自我)は繰り返しあの手この手で、チョッカイを出してきます。その都度、お腹に注意を戻すしかありません。実はこのチョッカイは、意識が「いき」に集中していることへの証明でもあります。集中への道標の役割を果たしているのです。

 妄想が出てきたら、それを離れてお腹に意識を戻す。これを繰り返すのが、「いきと姿勢のレッスン」の内容です。
 一種の筋トレです。普段の浅い呼吸に合わせた呼吸筋の使い方(身体全体の筋肉の使い方でもありますが、その運動イメージ)は、脳の中にインプットされています。それを深い呼吸の身体運動イメージへと書き換えていくのです。
 脳は一度インプットされた身体の使い方の情報を守ろうとします。これが脳の性格です。そのため、先に書いたように、それを意識的に変更することに、脳は妄想でもって徹底的に抗おうとするのです。

 お腹の中の「いき」の微細な変化に意識を向ければ、脳は妄想を見せます。「いき」に集中できている証拠です。集中できていなければ妄想は現れません。
 ただし妄想に耽っていては「いき」への注意を離れてしまう。そこでまた「いき」に意識を戻します。しばらくするとまた妄想が浮かんでくる。「素晴らしい考え」や「光が見える」など、魅惑的な妄想もありますが妄想に変わりはありません。そこでまたお腹の中の「いき」に意識を戻す。
 「いき」と「妄想」の間を行ったり来たりするその往還運動の繰り返しが、実は「集中している」ということなのです。集中とは、不動の静止の中に浸ることではありません。変化とともにあることなのです。

 この往還する変化の渦中を、自分の置き処とすることができるようになるのが、「いきと姿勢のレッスン」なのです。
 当たり前のことですが、生きている限りは呼吸に終わりがないのと同じように、当然「いき」のレッスンに終わりはありません。
 けれども僅かずつではありますが、繰り返すことで「いき」の置き処が変わっていきます。

 あまり目先の効果を謳いたくないのですが、10分ほど「いき」に意識を集中するだけで、「からだ」(感覚)と「こころ」(気持ち)に変化が出ます。ともかく「気持ち良い!」という感想が多いのですが、そのほかにも「からだもこころも楽になった」「スッキリした」「ずっと坐っていたい」「重心が低くなった」「からだは軽いけれどもどっしりと安定している」「安心して坐っていられる」等々。

 胡坐をほどいて立ち上がってみると、「地に足がついて、立っているのが楽だ」「背が伸びた・背が高くなった」「視野が拡がった」「周りの様子がよく見える」「立っていることが楽しい」「動き出したくなる」「重荷を下ろしたようだ」等々。普段とは違う自分の「からだ」と「こころ」が現れてきます。

 そして、明るく柔らかく静かな空気がその場を満たします。一人一人の「からだ」がゆったりとその場に解き放たれます。人とともにいることの安心感が生まれます。

 冒頭で、新宿の雑踏を行き交う人の意識の置き処(自分)が胸から上になっていることに触れました。
 自意識(自我意識)を前面に立て路上を闊歩する人々の姿がそこにあります。脳を司令塔の頂点に立て、意志の力で自分を引き上げ、人群れの中を渡っていく。それは、意志のアンテナを張り続け、意志的な緊張を常に心身に背負いながら、自分(自我)を保ち続けている姿です。

 意識の置き処は脳であり、その支配力を持って自分をコントロールし、状況や他者に向かい自分を在らしめている。
 そのため脳は常にフル回転をしている。睡眠時のほかは、脳の休まる暇がありません。
 さらに脳が回転しているときには、常に身体も状況に対して緊張し身構えています。自意識も次から次へと考える作業に明け暮れています。

 こんなことを続けていれば、心と体を四六時中張り詰めていることになり、神経症や心身症に陥って当然です。その上せっかくの休日でも自意識は普段通りに働き続けてしまう。本当の休息は成り立ちません。

 さて、意識の置き処がお臍から下に降りてくるとどうなるか。まず、自意識の暴走する様子を、距離をとって眺めることができるようになる。

 お腹の位置から頭上を眺めて「脳(自意識)のやつ、相変わらず頑張ってやがる。そろそろ脳スイッチをオフにしないとヤバイぞ!」という区別がつくようになる。
(働きすぎの警告は脳にはできない。脳は情報処理にひた走るだけ。壊れるまで走り続ける)

 「あの人はああ言ったけど、私の腹には響かない。くよくよ考えてもしょうがないから、放っておこう」などと、何が私にとって肝心なことかそうではないかという区別がつき始める。結果としてクヨクヨすることがなくなる。
(脳の働きは、コンピューターみたいなもので、どんな情報でも構わず処理をしようとして、様々な状況の変化を一律に取り込み、すべての情報にしばられ引きずりまわされ、選択ができなくなる)

 感情に巻き込まれることがなくなる。あるいは感情の働きの豊かさ(喜怒哀楽)を楽しめるようになる。
(情緒の不安定は脳の働きを阻害する。そこで脳は感情を押し殺そうと緊張を強いる。そこに葛藤が生まれ感情を閉じ込めたしこり=トラウマが形成される)
 胸の中でもやもやしているものが、お腹から眺めれば、解決の糸口が見えてくる。大変だねと、お腹の側から声をかけることができるようになる。

 これは、私にとって何よりの意味といっていいのですが、道端に色とりどりに咲き誇る、小さな花々の姿が私の意識に飛び込んでくる。
先に脳とお腹(呼吸)の往還運動と書きましたが、そこに心の空間が開けるのだと思います。
 風の吹き渡る声、鳥の囀り、花の彩りや香り、自然の息吹が見るとは無しに、向こうから私の「からだ」=「こころ」に飛び込んでくるのです。

 お腹に意識を置くことは、古来、日本の風土の中では当然のことだったようです。明治に始まる西洋由来の近代化以降、私たちは「自意識」=脳に置いた意識を中心に、物事を捉えるようになってきました。
 「からだとことばのレッスン」は、古来日本の身体文化、あるいは身体哲学の価値の復権・生まれ変わりを願うものです。意識をお腹に置く。自然や他者とは、ひとつながりの「いのち」より現れては消える、多様な個々であることが身をもって了解されてきます。

 満員電車も新宿の雑踏も、「いのち」の花の咲き誇る場となれば素敵かもしれません。「妄想」ですね(笑)


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