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2020年07月15日 (水) | Edit |
BCC①

『 脱学校の社会 』イヴァン・イリッチ著(東京創元社)
昭和52年10月20日 初版
昭和55年12月15日   9 版(1980年)

1980年冬といえば、竹内演劇研究所に入る前、教員の採用試験に落ちて、次年度の試験に向けて勉強を始めたころだと思う。

教員採用の筆記試験をとおって2次の集団面接へ。面談で私の頭の中は真っ白になった。ホントに頭は真っ白になる。同席した教員志望の面々が、試験官の質問に答えている。先生でもないくせに、理想的な教育論をみんな堂々と答えている。

私はといえば、手は震え意識はフリーズし、全く言葉に詰まってしまった。真っ白な頭の中にどんなに爪を立てようとしても手が架からない。言葉がつかみ出せない。頭が真っ白になるのはファーストキッス以来か!(笑)

採用試験に落ちて、私は実際の教育について何にも知らないことに気づく。子供や生徒と関わったこともない。

教育実習は一応済ませていたが、その内容の酷さと言ったら思い出すのも憚られるほどで、指導教官に呆れらながらも一時間だけ、一コマの道徳の授業だけは褒められたのは覚えている。あとはともかく酷かった。これではとても教育実習合格とは言えないが、、、。と教官から言われて、拷問の日々を終えた。

そこで少しは反省して、自分の適不適くらい考え直せば良かったろうに、こうと決めたら曲げられない性格。

筆記試験の問題集だけ一生懸命勉強して筆記試験に通ったのだが、なにせ未体験世界。自分の中にも志望動機などはっきりしない。子どもが好きかといえばそうでもない。子どもを世話するより、子供に良いようにあしらわれるのがオチ!

自分が幼稚園のとき担任の先生に将来は学校の先生ね!と勧められた。IQテストの結果が少々よかったようだ。その時、先生を好きだったので馬鹿正直にその言葉を飲み込んだか?

あと考えられるのは、夕焼け小焼けで日が暮れて~♪で、子供と一緒で毎日日暮れ前には家へ帰って、先生というのは毎日ノンビリできると、思い込んでいたこと。

私の小中学校当時はまだ塾は無くて、子供は日が暮れるまで近所で遊びまくっていたし、子供から見れば教師も案外にノホホンとして見えていた。大いなる誤解、勘違い。

夕方日が沈む前に、夕日を浴びながら家に着いて、のんびりと暮らせるのが教師である。となぜか決めつけていた。もちろん学校は遊び場でしかない。勉強が出来て頭が良くてなんていう価値観は、私には全くの他人事。

勉強嫌いで私の頭の中には、人に教えるようなもの、教えたくなるような、自ら熱弁したくなるような、大事な知識や技能は何もない。

そうだ竹内演劇研究所に入って、即興劇のレッスンをやった。そのとき舞台の上で私の口をついて出てきたセリフが「なんにもない!何にもない!!!なんにもないのに教師の振りして♪、、♪何にもない!何にもない!、、、♪」歌って踊ってノリノリ!あとから『何にもない音頭』と名付けた。教室の仲間に大ヒット!いま思えばこれは真実、リアリティーの塊だったのだ。

要は、私の教師になる動機などこんなもの。教師になれば楽しく遊んで暮らしを送れるものと、浅はかにも思い込んでいた私!

このくらいのことは、ちょっと考えれば分かりそうだが、頭が足りない私。思い込みのままに教員採用に挑戦。一浪して中学校教員にデビュー。本職になる前に自分の身の程を知っていればと思うのだが、周りにはいろいろ迷惑をかけて、一年半で辞職願い。晴れて夏休み明けにはお役御免。

先を急ぎすぎた。一年目に採用試験を落ちたときは、まだ愚直に採用合格を目指していた。その時に、ちゃんと勉強しなければと手に入れたのが、この イヴァン・イリッチ著『 脱学校の社会 』。普通なら『すぐ出来る』とか『よくわかる』『教員採用試験の心得』『100%面接合格!』・・(笑)などなど、読むべき本は色々あるだろうに、そんなものには目も呉れずに、なんと『 脱学校の社会 』!!!

この本を読んで思ったのは、私たちにとって学校で勉強することが、なんだか知らないうちに凄く当然のことになってしまっている。「伝統の巨人軍は永遠に不滅です!」と同じで、学校自体が、自然当然、絶対にあるべきものと、考え無しに決め付けてしまっていることに気がついた。(野球が始まったのも、国家による学校教育が始まったのも、たかだか明治時代。江戸時代にはなかったのだから、どこが伝統なの!)

学校が無いという選択肢と、そこから生まれるであろう、本来の意味での教育の可能性。現代の教育が人間のインスピレーション(想像・創造)の自由を喰い殺してしまっていることなど、考えさせられた。簡単に言えば近代化の孕む教育や社会の様々な問題に眼をひらかされた。

かっこよく言えば、近代化における教育の役割について考えたことで、学校教育の限界も見えて来たのだろう。単に教職に不適合を起こしただけなのだが。

ともかく自分の中に染み付いた、頑固な固定観念・既成概念がひっくり返される切っ掛けとなった一冊・・・だったような気がする。

他にも『 脱学校化の可能性 』『脱病院化社会』などなど手に入れて読んだ。

中学校の理科の先生は辞めてしまったけど、いまもその延長線上で、私は教師をしているようにも思う。それは『からだとことばといのちのレッスン』のレッスン教室で、教育とはこれだ!と肯くことができるような自分自身にとっての実践の成立を、求め続けているのだ!、、、かも知れない(笑)

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コロナからの新たなスタートとして『からこといのち通信』をスタートしました。通信の材料がないので、Book Cover Challenge !【再度①】を始めました。どこが「新たな」なのかと自問してしまいますが、お許しください。『からこといのち通信』はメールで配信しています。ご希望の方にはメールでお送りします。ご希望の方はメール karadazerohonpo@gmail.com へご連絡ください。

瀬戸嶋 充 ばん

2020年06月27日 (土) | Edit |
20200627.jpg

久しぶりに都内に出た。3ヶ月ぶり!!

午前11時前の山手線、ソーシャルディスタンスな電車のなか、みんな頭をカチンカチンに緊張させている。
お凸(でこ)に石っコロをはめ込んでいるような塩梅だ。
いつでも頭突きで勝負ができそうな、ヘッドライトならぬヘッドストーン(石頭)。
斜め向こうに坐った女性が首をクリクリ回してる。
石ころ頭じゃ首や肩も突っ張ることだろう。
あっちの外人さんも肩首クリクリだ。

こりゃキツイ。

身体から頭へと意識を引き上げてしまって、胸から下の身体(胴体・脚腰・足)は生彩が無い。動的でもない。休んでダラッとしていることもない。緊張感というのも違う。静かに動きを止めている!なんだかみんな同じ足に見えてくる。

みんなどこに行ったのかと尋ねれば、眼とお凸とスマホの三角形。そこだけに意識がチラチラと目まぐるしく点灯している。首から下は一律に無表情、活気も減ったくれも在ったもんではない。

コロナ騒ぎのドサクサの中で、いつの間にやら「からだ」の新たなスタンダードスタイル(存在イメージ)が完成してしまったのだろうか?

マジンガーZの操縦席(ホバーパイルダー)に乗り込んで、自分(自我意識)は戦闘ロボットの眉間の窓から状況を見降ろしている。前頭葉のところに鎮座して、スマホ越しに状況をモニターしている、とも言える。これが新たな人間存在のスタンダード・モデルか?コロナで隙間を空けて坐る大勢の姿が、外見は違っても、みんな一律の同様な印象だ。マスクは鉄人28号か?人間がモバイル端末化しているとも見えてくる。

座席に腰かける「からだ」は、戦闘から離脱してスイッチをオフにした「自我意識」の『乗り物』だ。駅に着けばスイッチをONにして電車のドアに向かい、ホームに降りて行く。残った数体は突然に開け放たれた座席に残り、眼を瞬たたせながらキョロキョロと視線のやり場に困っている。

私は長年、意識と身体(こころとからだ)の二元分離とそこに生じる対立を問題と見て、その統合を模索してきた(からだとことばのレッスン)のであるが、この時代ここに来て、とうとう意識(脳)主導の人間観、意識の指揮によってその人間行動(からだ)が成されるという理念が現実化され、世間のスタンダード化されてしまったのだ!と、一人愕然として息を呑んでいた。

こうなると、知識(情報)が一番の価値を持つものとなる。不安や困難を乗り越えるための知識(ノウハウ)が売り物になる。(防災グッズやノウハウが良く売れるのと一緒だ)

「からだ」と「心」の深み、その一如のところに成立する安心感と幸福感は無視される。人間は仮の安心と虚仮の幸福を求めて、永遠に逍遥し知識を次から次へと消費し続けることになる。

生命の主体は身体である。脳は身体を通じて経験を記憶する。脳は身体の体験を通じて繰り返し新たに更新されて、心の豊かさが育てられる。知識はそれ自体に知識を育てる働きを持たない。現実の持つ多様性と、固定しがちな自我との違和や葛藤衝突によって、自我は豊かさを獲得して行く。自我が乗りこえられた時の幸福感は、演劇の舞台を終えたときに体験できる。それは様々な表現活動や宗教体験によっても、齎されるものだろう。

さてさて、一旦出来上がってしまったスタンダードを乗りこえるのは大変なことだが、まあ生きものとしては、そこにしか解決の道は無いように思う。ぼちぼち歩き続けるつもりなので、ご協力をよろしくお願いいたしまする。

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オンライン教室、コロナ飢饉のなか(笑)おかげさまで無事にスタートしました。なにより毎回楽しくやっています。興味をお持ちの方は、気楽にご参加ください。こちらでご案内しています。

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2020年06月26日 (金) | Edit |
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ZOOMレッスン(オンライン教室)を始めてから、足のことが気になりだしている。

たいていは野口体操の基礎『 ぶら下がりの動き 』から始めて行くのだけれど、参加してくれる人の身体の状態・状況を確かめながら、無理のないやり方で身体の感覚を深堀りして行くと、どうしても「足の緊張」に行き当たる。足首から足先、足の中の感覚が鈍い。緊張することで内部感覚が押し殺されてしまっている。

普通に緊張といえば、肩や首、腰の痛みや不快感をうったえることが多い。けれどもレッスンの中で私が気になるのは足先の無自覚な緊張である。とくに最近ではそれが顕著になっている。コロナの影響も考えられるかも知れない。

足の中身が固まっていると言うことは、非常にバランスが悪い。立っているとき、歩いているとき、足の中の感覚が鈍くなっていれば、土台が不安定になる。基本の在り方は、立った姿勢では足裏がふっくらと柔らかく床に接していて、バランスが崩れそうになれば、微妙に緊張を働かせて、土台(足裏・重心)の調整をしてバランスを保っているのが良い。

常駐してしまった足の内部(足・足首・足先)の筋緊張によって、そのバランス調整が十分に働かなくなったとき、躓いたり、段差を蹴ったり、足を踏み外したり、滑ったりコケたりと非常に不安定なことになる。怖いことだ!さてどうしたら良いか。

一つに、当然のことではあるが、足の内部の緊張=筋肉の硬直を緩めて、緊張に締め付けられて鈍くなった神経の働きを取り戻せばよい。足の裏に顔があるとすれば、しかめっ面ではなくて、ニコニコ顔にしてやれば良い。解放された表情の方が、気持ち良く働ける。これがレッスン(野口体操)でのやり方だ。

ところがたいていの人はそうはしない。バランス調整のもう一つのやり方を頼る。役に立たなくなった足の感覚を無視して、頭=意識の能力を使って安定を保とうとする。

脳が、視覚・聴覚などの神経からの情報を頼りに、身体に命令・指令をくだしてバランスを取ろうとする。そのため意識がバランスの担い手となり、常に神経をとがらせることになる。歩いている限り、立っている限り、脳神経が休まることが無い。だから休むことは寝転がって、或いは椅子にもたれてダラッとすることだという常識が生まれる。

『足』で「立つ・歩く」ではなく、『頭』(意識のコントロール)で「立つ・歩く」へと、身体行動の意味が変転してしまう。すると重心が胸から上(頭)にあがって、コケそうななれば慌てて肩や首を固める。腰にも大きな負担がかかる。脳のコントロールが腕・肩・首・腰への操作を強いるためだ。

その緊張が常駐することが、肩こり腰痛、首痛の原因となる。過負荷、余計な努力を自らに強い続けることになるのだ。こうなると、寝転がっただけでは休むことが不可能になる。

「からだ」さんとしては、もうこれ以上の無理遣りは止めてください。と、メッセージを発する。強烈な痛みでもって、身体への無理無体な使役(扱き使い)をブロックして、もうこれ以上やると身体はもちろん心も壊れますよと、警告を出す。

『 足元を見なさい 』とは、昔からよく言われること。コロナに振り回される中、どれだけの人が自分の足元を見ただろうか。むしろコロナ禍・コロナ対策などといって、頭ばかりに閉じこもって世間を眺めて戦々恐々としている。こころとからだの重心は、前頭葉に上がりっぱなしで、不安定極まりない。恐怖はいや増すばかり。さらにそれを抑え込もうと思考に頼ることで、そのうち限界が切れて、プッツン!

身体の中を突き通る、大地より流れ込むいのちの流れが渦巻いていると、思考は揺すぶられ、思考の世界に閉じこもることができなくなる。意識(思考)にしてみれば、腹立たしいことこの上ない。水道の元栓を締めるように足先を固めてしまえば、からだを内側から突き上げる力はコントロールされ、思考に集中出来る。然し思考(意識)によって、コロナを駆逐することは、そもそも可能なのだろうか???

いまは地に足着けて、自分の内的な自然=「からだ」との関係を修復して行くことが必要かもしれない。歪んだ眼差しではなくて、ものごとをあるがままに観る素直な眼差しを取り戻すために。諸々明らかに観て、納得のうえでコロナで死ぬのなら、それもよし!と言えるように。


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2020年06月22日 (月) | Edit |
2020年7月23日(木)~26日(日) 夏合宿 
『 からだとことばといのちのレッスン 』

瀬戸嶋 ばん 携帯電話 090-9019-7547(SMS可)
メール karadazerohonpo@gmail.com
琵琶湖和邇浜青年会館 電話 077-594-0244

◆ オンライン準備会(ZOOM利用)
①7月  5日(日) 16時〜18時
ID: 817 6308 9574 PW: 414481
②7月12日(日) 13時〜16時
ID: 810 7399 7144 PW: 107213
③予備日 7月18日(日)

◆ 7月23日(木) 
集合 JR湖西線 和邇駅改札 12時45分
青年会館到着 13時30分
21時までレッスン 

◆ 7月24日(金) 8時~21時まで

◆ 7月25日(土) 8時~21時まで

◆ 7月26日(日) 
8時~16時までレッスン
青年会館出発 16時40分
JR湖西線 和邇駅発 17時15分 京都行き乗車(17時49分 京都着)

▼ 参加費 50,000円(懇親会費用を含みます)
7月19日(日)までに入金してください。(手数料はご負担願います)
ゆうちょ銀行総合口座 【記号】10040【番号】83226161
他銀行からの振込の場合 【店名】〇〇八(漢数字)【店番】008【預金種目】普通預金【口座番号】8322616
または、PayPay利用、ID:kar_kot_inochi 宛て送金(手数料無料)

▼その他
合宿でテキストとして動きながら使用します。PDF版『ワルのぽけっと』の印刷と、本綴じ(分冊が良いかも)を各自お忘れなく。PDFはこちらからダウンロードできます。

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2020年06月10日 (水) | Edit |
名称未設定 40

『ああ、世界はなんて美しい!』この一言に尽きるのです。
この事実(リアリティ)にまみえるために人は生きているのかも知れません。少なからず私のこれまでの歩みは、この一言のためにあったと、いまは振り返ることができます。

ティク・ナット・ハンとの出会いは、地元の市立図書館の本棚から始まっています。『生けるブッダ、生けるキリスト』ティクナットハン 著、池田久代 訳 春秋社 1996/11/20発行、図書館でなんども借りて読みました。

ブッダとキリストという、比較対立の論点からではなしに、その和解共有の場へと読者を連れて行ってくれる。『ああ、世界はなんて美しい!』その喜びの中へ。

私自身の仕事=レッスンは「からだ」と「ことば」(「意識」と「身体」)の分断と対立をどう超えてゆくか、それがテーマです。私自身の中にも分断と対立が埋め込まれている。その和解のときを保証してくれるのが『ああ、世界はなんて美しい!』と言う体験であり、その体験の地から片足を引き剥がさないことが、生きることであり生きるための戦いでもあります。

ベトナム戦争のさ中、僧侶は寺院にこもって修業を続けていれば、安全と衣食を保証されていた。ハン師は民衆の窮状を知り、仏教は何のためにあるのかを考える。そして禅寺を飛び出して、ベトナム民衆のために救済活動を始める。

ハン師にとっては、信仰とは行動することでありました。寺院に籠ってお経を挙げたり、修業に閉じこもっていることが、仏陀を信仰することではないのです。人々の中に入り込んでその幸せのために、ブッダ(菩薩)として行動することが、信仰であり修行になって行ったのでしょう。

それは、エンゲイジド・ブッディズム(社会に働きかけ行動する仏教)と呼ばれました。逆から言えば、それまでの仏教は、寺院に籠って民衆の救済には知らぬ存ぜずで済まして来ていたのでしょう。平和を希求する活動はやがて内的な分断から個人を救う活動(マインドフルネス瞑想)へと進んで行きました。

『ああ、世界はなんて美しい!』は、自らの中に巣食う分断と対立から、自分や他者を開放する行動=真の修業の中で、大いなる自然(仏陀・キリスト・マホメッド・神・・・)の側から私たちに与えられた、贈り物であり道標(みちしるべ)なのでしょう。

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40日目、40回目の Book Cover Challenge 最後が「分断と対立」の話に落ち着くとは思ってもいませんでした。「分断と対立」を乗りこえるには、痛みをを伴います。分断と対立の苦しさから自分たち人間を救済しなければと、私たちの種(元型?集合的無意識?)としての「からだ」=「いのち」は、コロナに助けを求めたのではないかと私は考えています。

少なからず、コロナの経験を幸せに出会うためのマイルストーンと考えて、石っころの姿をしっかりと観て行くべきだと思います。コロナ禍と名付け、殲滅して、それを闇に葬ると言う態度はもうよしましょう。それでは戦争後のPTSDを闇に葬ったことの二の舞でしかない無いでしょう。悲しみ苦しみを闇に封じ込めると言うことは同時に、喜びや楽しみをも心の奥深く=身体の深層に封じ込めることなのです。

『ああ、世界はなんて美しい!』をは身近にあります。それを見る目を育てなければ見えないものですが、ほんとうの幸せを希求して歩み続けるならば、自然とその眼は育ってくることでしょう。

これまでの私たちの安定した生活は、まがい物の幸せを良しとして受け入れて、それ生きることしかできませんでした。これからは自分に正直に、ほんとうの幸せを求めてみませんか。

宮澤賢治はこう言っています。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論)
「何が幸せかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら、峠の上りも下りもみんな、本当の幸せに近づく一足づつですから」(銀河鉄道の夜)

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5/2~6/10の40日間、オンライン上ではありますが、長期にわたりお付き合いいただいた方々に感謝しております。「いいね!」などの反応に励まされてここまでたどり着くことができました。私は「からだとことばといのちのレッスン」の実践が仕事であり、自ら進んで文章を発信することが不得手です。今回は村上洋司さんから、宿題(お題)を頂いたおかげで私の中身を引っ張り出され、ここまで来られました。村上さん、ありがとうございました。

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2020年06月09日 (火) | Edit |
名称未設定 39

私はここ数年、今の人たち(現代人)の「息の浅い」ことを問題視してきた。ところがその深浅を見極め、自身の実践の中で一途に唱える人などいない。

意識優位で、重心が足腰から、それより上部の胸や頭へ移ってしまっている。足元まで「息が降りる」ことなく、足元がおぼつかない。息の浅い、重心が吊り上げられた、非常に不安定な姿勢。まるでそれが人間本来の姿(スタンダード)であるかのように、無自覚に地位を与えてしまっている。

「地に足を着けて」というが、それは大地と自己(=からだ)とが、足の裏を通じて一体となることである。その結果、大地の力を足の裏から引き入れ姿勢を支え調え、身体内の代謝循環を活性化する。

ボディーワークの人たちがグラウンディングと言うことをよく言うが、彼らはグラウンディング自体を第一のこととして取り上げることはない。他に主な学びがあり、その補助的な位置にグラウンディングや呼吸のワークは置かれている。

医者やスポーツ指導者、理学療法士、整体師なども、「地に足を着ける」ことを第一に考えることはしないだろう。

私がやっている「からだとことばといのちのレッスン」の課題のそのほとんどは、息を深くすることを目指し、そのためにからだの物理的緊張の解除に重点を置く。呼吸が摑まれば後はどうにでもなるというスタンスだ。「息をすること」(呼吸)自体が、リベラルアーツなのである。

昨日はZOOMで、コロナ対策について話し合いをした。私自身この状況の中で、レッスンをどうやって続けて行くかを問われている。昨晩は床に入ってからもそのことを考えていた。そして私なりの回答を書いているのだが、、、。

私たち自身の「からだ」が、意識してのことにせよ、無自覚・非意識的なこととしてであれ、全人類的な規模での極端なバランスの崩れによる、心身全般或いは種全体の自己崩壊を妨げるために、コロナウィルスを自身の中に引き入れているのではないかと私は思っている。

そして、私たちの生命活動を支えている私たち自身の内的自然自体が、コロナを引き入れる必要がないと判断するとき、コロナは収束するだろう。つまりは、いかに「いき」をするか、その大切さを私たちが深く自覚することが出来たときに、解決の道が開けてくるよう私には思えている。

あらためて、この混乱を乗り切るためには、恐怖・不安に振り回されて思考によって自他を計り否定し傷つけるのではなく、何万年も私たちが続けてきた「いき」(呼吸)の、その統合力=内的自然の働きを回復し、そこに未来を委ねよう。

近代「西洋」の行き方には、自然を「征服する」「克服する」という志向がある。我々「東洋」のやり方には、本来そのような発想は無かった。と、禅学者鈴木大拙さんは言う。とくに近代化以前の日本人は、自然の事物と自身とが、仲良くする、融け合う、我を忘れて遊ぶ、などの共生の方向でやってきた。

コロナを敵と見ることは、私たち自身のからだ(=自然)をも、敵と見做すことになる。私たち自身が無意識のうちに育ててしまった心身に抱え込んだ内的な「分断」を、どうやってあらたに統合できるかが問われている。それがコロナの運んできたメッセージであろう。「息をすること」(呼吸)は、再統合への道をひらく。

秋月龍珉(りょうみん)さんは、鈴木大拙さんに師事して20年を過ごした学者であり禅僧である。西田幾多郎さんとの関りも深い。私自身は、秋月さんの考え方や大拙さんへの接し方に魅かれて、禅仏教に興味を持った。この人も先ず実践が先にあって、理屈は後から着いてくるタイプだったのだろう(笑)この人ならば禅堂で指導を受けてみたかった気がする。

1995年12月10日 初版第一刷発行

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5月下旬から始めた人間と演劇研究所オンラインレッスンは、息を深くすることに、内容を特化している。このコロナの影響を乗りこえるには、息を深くして成り行きに付き添っていくしかない。いろいろ考えをめぐらして、息をつめてしまっていては、神経がもたない。からだとこころの緊張を緩めて、からだに息を深く通すことで、眼の前の現実に落ち着いて対処することが可能になる。まあ簡単に言えばたいへん心地の良い「からだのリフレッシュ」のひと時であるが。(人間と演劇研究所HP https://bit.ly/3f4BlFm にてご案内しています。)

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