FC2ブログ
2019年05月11日 (土) | Edit |
琵琶湖合宿20190713

Art&Learning Project 主催

『 からだとことばといのちのレッスン滋賀合宿 』

*表現力・コミュニケーション力を磨く
*こり固まったからだを緩め、新しい身体感覚と声に出会う
*宮沢賢治の豊かなことばの世界を朗読を通して味わう

 人間と演劇研究所の瀬戸嶋 充・ばんさんを講師にお招きし「からだとことばといのちのレッスン」の合宿ワークショップを行います。
 「からだとことばといのちのレッスン」は竹内敏晴の「竹内レッスン」と「野口体操」を応用したレッスンです。 合宿ではレッスンでじっくりとからだと向き合って、新しいからだの感覚で宮沢賢治の物語で朗読劇を行います。 開いたからだで、表現する楽しさや朗読劇を通してだれかとつながる喜びを体感しませんか。
 三日間、集中してからだと声と言葉に向き合います。最終日には宮沢賢治の物語の朗読をします。
 私自身の体験ですが、過去に参加した合宿で「あなたの声はとどかない。上手く説明されている感じがするけど、心に触れてこないんだ」と言われました。「声がとどかない?どういうこと?心に触れる?」訳が分からないまま1日目を終えました。3日間の合宿の中で最終日、ようやく自分の声が気持ちよく響き、他者に伝わる感触を得ました。「伝わった!」という喜びを改めて感じた瞬間でした。この3日間で、今まで当たり前だと思っていた「コミュニケーション」や「表現」「言葉」「からだ」についてことごとく価値観をひっくり返されました。
「からだとことばといのちのレッスン」が必要な方に届きますように。「自分自身のコミュニケーションについて考えたいな」「伝え合うってどういうことだろうか」そういうことを皆さんと一緒に探究する3日間にしたいなと思っています。

【日 時】
 2019年7月13日(土) 13時〜 7月15日(月・祝)16時半迄
    *13日13時 JR和邇浜駅集合 送迎あり
    *全日参加を推奨しますが、参加日程の相談に応じます。
【場 所】
 ユースホステル 和邇浜 ( わにはま ) 青年会館 
 〒520-0523 滋賀県大津市和邇南浜 403 
 電話 077-594-0244
【定 員】10名
【費 用】
 38000円(※講師謝礼・講師交通費・宿泊費にあてます。ギリ 
 ギリの予算設定ですのでご理解ください)
 ※事前のお振込をお願いしています。振込先は申込後にご連絡さ
  せていただきます。 
  駅から会場までのタクシー代・懇親会費用は別途 必要です。
  猛暑の場合、レッスン会場冷房費用として一人当たり千円の追加になります。
【申 込】
  参加希望を明記の上、Art&Learningか人間と演劇研究所まで 
 ご連絡ください。イベントページの参加表明だけでは受付になり
 ません。

 Art&Learning 小石原宛
 e-mail :t*koishihara@gmail.com
 (*を.に変えて送信ください)

 人間と演劇研究所 瀬戸嶋宛 
 e-mail : karadazerohonpo@gmail.com

【内 容】
*7/13(土)【午後~夜】
からだの緊張をときほぐし、心身の細やかな感受性を育てる。深く安らぐ呼吸を知る。姿勢と呼吸の繋がりを体験する。からだの動きと呼吸を一致させる。(野口体操)
*7/14(日)
【午前~午後】からだ全体に響く、無理なく楽で気持ちの良い発声を学ぶ。相手に届く声を知る。声と呼吸のリズムを繋げる練習。(竹内レッスン)
【午後~夜】ことばで、相手の心とからだに働きかける練習。ことばの発音と、発音から引き出されるイメージの関連を知る。賢治童話の中のに入って、物語を語る、歌う、踊る。(竹内レッスン)
*7/15(月)【午前~午後】宮沢賢治童話の朗読劇の創作に向かう、総合的なレッスン。(からだとことばといのちのレッスン)
【午後】朗読劇の発表。
(参加される方々のからだの状況や、集中力に応じて、無理のない進行をするために、多少の変更が在ります。)

【講 師】
人間と演劇研究所  瀬戸嶋 充・ばん 
https://ningen-engeki.jimdo.com/

【講師プロフィール】
1981年 竹内敏晴・野口三千三に師事。1988 年人間と演劇研究所設立、「竹内からだと ことば のレッスン 」と「 野口体操」の継承指導、宮沢賢治の作品の舞台創作を続ける。現在、主に東京・大阪・ 京都でレッスン教室を主宰。その他、内 観療法・ 禅・丹田呼吸法など、日本の伝統に根差した 心身 修養法を学ぶ。人間と演劇研究所代表・日本ソマティック心理学協会 SPN 世話人。

【主 催】
Art&Learning 小石原智宏

【付 記】瀬戸嶋のご挨拶

『 7/13~15@滋賀 からだとことばといのちのレッスン WS合宿 』

いつの間にか夏冬恒例 (笑) になりました、琵琶湖畔和邇浜合宿。2泊3日のレッスンWS、この夏も開催します。
「からだの奥底」=「こころの深み」に届く「ことば」の成立を目指します。
そのため、「からだ」全体の隅々にまで「こころ」を満たす。あるいは「からだ」を「こころ」に明け渡すことが、必要です。
薄く軽く明るく透明に 緊張から融き離たれた「からだ」を用意することで、息づかい=「いのち」はやってきます。
賢治童話の「ことば」は息づかいを受け、「こえ」は彩りと調べを奏で、人々の「からだ」の奥底に響き合いを起し、物語りのイメージ世界=「こころ」を、その場に立ち上げます。
宮澤賢治の言葉をテキストに、「ことば」の本来的な「ちから」、その原初の「息づかい」を回復します。「ことば」はそれを聞く人の「からだ」に飛び込み、「からだ」と「こころ」の深みから「いのち」を沸き立たせます。
私たち一人一人が、深い集中のなかで、自我の縛りを解き放ち、物語世界に参入し、心底 遊びのめす。物語世界に遊ぶとは、日常の制約を超えて、非日常の時空を生きることです。

ひと月後の開催になりました。現在のところ空席があります。
どうぞいらして下さい。

関連記事
2019年04月09日 (火) | Edit |
西荻窪「暮らしのいろいろ ていねいに、」さんにて『からだレッスン』を毎月開催しています。
6月8日(土)・7月20日(土)・8月10日(土)いずれも18時30分~20時30分
参加費は一回5,000円(初回体験割引3,000円)です。
申込問い合わせは、メール karadazerohonpo@gmail.com または 電話 090-9019-7547にて、 瀬戸嶋まで。
開催日程はQRコードより、人間と演劇研究所ホームページでも確認できます。
QR_Code1554178743.jpg 


折々のことば-2-2


~~誰にでも無理なくできる~~

やさしい「からだ」のレッスン


karada-01.jpg

1.「からだ」をゆらすレッスン
「からだ」の「ゆらし」を基本にして、緊張による身体のこわ張りをときほぐして行きます。一人で、あるいはペアになって進めます。気持ちのよさが好評です。短時間で、温泉に浸かったような解放感が体験できます。一人一人の表情が、以前とは見違えるように明るく優しくなります。

karada-02.jpg

2.「からだ」のすみずみまで、息をとどけるレッスン
呼吸は全身呼吸が基本です。「からだ」の緊張をゆるめたところで、頭の天辺から手・足の指先まで、隅々までの息の流れを感じてみます。「からだ」が空気に融け去ってしまい、息の流れが「からだ」を吹き抜けます。


karada-08.jpg 


3.姿勢(からだ)と呼吸のつながりを調えるレッスン
緊張を取り去ると、姿勢を支えるのは「いき(息)」であることが体感されます。良い姿勢を取ろうと緊張せずとも、伸びやかな姿勢が生まれてきます。背筋が自然に伸びて、背が高くなり、普段より視野が広くなります。自然で楽で伸びやかな、無理な緊張から開放された軽快な「からだ」が際立ってきます。

karada-07.jpg

「こころの安心」も「からだの安定」も、ひとえに息(呼吸)のゆったりとした深さによってのみもたらされます。浅く忙しない呼吸では、どんな方法を用いても不安を払拭することが出来ないのです。呼吸が深くなるためには「いき」の器となる「からだ」のこわ張りをゆるめ、「いき」の流れが「からだ」を自在に駆け巡ることが可能なように、姿勢を調整します。「からだ」の奥から元気が湧いてきます。他者や世界との無理なく優しい交感・交流の能力も高まっていきます。

講師 瀬戸嶋 充
(人間と演劇研究所主宰・竹内敏晴からだとことばのレッスン・野口体操指導)


人間と演劇研究所 代表 瀬戸嶋 充 ばん

関連記事
2019年04月01日 (月) | Edit |

東京・大阪ワンディ・ベーシック『からだレッスン』のお知らせ 
(人間と演劇研究所主催)

2019-03-29 011ed 

『 誰にでも無理なくできる、やさしい「からだ」のレッスン 』

・「からだ」についての基本的なレッスンを、時間をかけて丁寧に進めたいと思います。初めてレッスンに参加される方にもお勧めです。
・「からだ」のこわばりを解き、息を深め、そこから始まる「こえ」「ことば」との出会いも体験して頂ければと思っています。

●ワンディ・ベーシック『からだレッスン』
【 大阪 】2019年4月20日(土) 9:40~17:00 
中央会館 2階和室(大阪市中央区島之内2丁目12−31)
【 東京 】2019年4月28日(日) 9:40~17:00 
若松地域センター 4階和室「はなみずき」(新宿区若松町12-6)
●参加費 7,000円( 初回割引の場合 5,000円 )
●申込み・問合せ
人間と演劇研究所 瀬戸嶋充 宛
メール karadazerohonpo@gmail.com
電話 090-9019-7547(ショートメール可)

《 レッスン概要 》
1.「からだ」をゆるめるレッスン
「からだ」の「ゆらし」を基本にして、緊張による身体のこわ張りをときほぐして行きます。一人で、あるいはペアになって進めます。気持ちのよさが好評です。短時間で、温泉に浸かったような解放感が体験できます。一人一人の表情が、以前とは見違えるように明るく優しくなります。
2.「からだ」のすみずみまで、息をとどけるレッスン
呼吸は全身呼吸が基本です。「からだ」の緊張をゆるめたところで、頭の天辺から手・足の指先まで、隅々までの息の流れを感じてみます。「からだ」が空気に融け去ってしまい、息の流れが「からだ」を吹き抜けます。
3.姿勢(からだ)と呼吸のつながりを調えるレッスン
緊張を取り去ると、姿勢を支えるのは「いき(息)」であることが体感されます。良い姿勢を取ろうと緊張せずとも、伸びやかな姿勢が生まれてきます。背筋が自然に伸びて、背が高くなり、普段より視野が広くなります。自然で楽で伸びやかな、無理な緊張から開放された軽快な「からだ」が際立ってきます。

「こころの安心」も「からだの安定」も、ひとえに息(呼吸)のゆったりとした深さによってのみもたらされます。浅く忙しない呼吸では、どんな方法を用いても不安を払拭することが出来ないのです。呼吸が深くなるためには「いき」の器となる「からだ」のこわ張りをゆるめ、「いき」の流れが「からだ」を自在に駆け巡ることが可能なように、姿勢を調整します。「からだ」の中から元気が湧いてきます。他者や世界との無理なく優しい交感・交流の能力も高まっていきます。

4.「からだ」「こえ」「ことば」のつながりを体感するレッスン
一人一人個性的な、無理なく楽に発っされる「こえ」(=本当の声)を開きます。

人間と演劇研究所 (瀬戸嶋 充 主宰)

関連記事
2019年02月09日 (土) | Edit |
2019-01-29 003-ed 

ワークショップでは、宮澤賢治さんの書いた物語りを、資料(台本・話材)として利用することが多い。

『 鹿踊りのはじまり 』『 どんぐりと山猫 』『 セロ弾きのゴーシュ 』『 注文の多い料理店 』『 狼森と笊森、盗森 』『 雪渡り 』『 水仙月の四日 』『 かしわばやしの夜 』『 ひのきとひなげし 』『 夜だかの星 』『 銀河鉄道の夜 』『 虔十公園林 』・・・。ざっと思い浮かぶところで、こんなにある。

レッスンの場では、これらを声に出して読むのだ。すると不思議なことに、これらの物語りの内容=世界が、その場に立ち上がってくる。

私はその面白さ=不思議さに憑りつかれたように、賢治さんの童話を何度もなんども、声に出して読むことを繰り返している。

「 そこらがまだまるっきり、丈高い草や黒い林のままだったとき 嘉十(カジュウ)はおじいさんたちと一緒に、北上川の東から移ってきて、小さな畑をひらいて、粟(アワ)や稗を作っていました。あるとき嘉十は栗の木から落ちて、少し左の膝を悪くしました。そんな時、みんなはいつでも、西の山の中の湯の湧くとこへ行って、小屋を架けて泊って治すのでした。天気の良い日に嘉十も出かけて行きました。」(『 鹿踊りのはじまり 』より)

こんな文章を、ワークショップの参加者が、みんなに向かって声を出して語っていく。するとそこに北上の山の中の光景が浮かび上がって来る。語り手も聞き手も一緒に、現実の時空間を離れて、眼の前の物語の世界の中での出来事を、実際に体験していくのです。

嘉十が空き地(広場)に置いていった、ひと欠片(カケラ)の栃団子をめぐって、鹿どもが、遊び・唄い・踊り・はんの木と太陽に祈りをささげる。そんな愉快とも荘厳ともいえるような光景との出会いを、語り手や聞き手は、嘉十や鹿になって、共に体験することが出来るのです。

賢治さんの文章の凄さはこの辺りにあります。賢治さんの物語りでは、物語の登場者としての、人物や動物の交流の他に、その背景となる自然の光景として、木々や草、岩石鉱物さえもが、生き物(登場者)として描かれているのです。

「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」(『注文の多い料理店』より)これらの「どう」・「ざわざわ」・「かさかさ」・「ごとんごとん」、これらは声に出して読むとき、擬態語ではありません。森のいのちが語る言葉(声)として、それを聞く者の心(=からだ)に迫り、内心に震えを起こします。賢治童話の中では、登場者が生きて活動するのと同じように、背景も息づいています。

ふつうの小説では、それぞれの場の雰囲気が、背景(地の文)として書きこまれていますが、それは固定したものです。背景自体が登場人物と対等に物申すようでは、小説にはならないのかも知れません。

また、背景が精密・緻密になりすぎると、内容となる出来事の進行が、背景の中に埋もれてしまいます。ふつうの小説は、声にして語ることよりも、目で読むほうに重きを置き、背景は、主人公の行動や心理を浮かび上がらせるためのバックスクリーン(黒幕・白幕)なのでしょう。

賢治作品を普通の小説のように黙読で読破しようとすると、非常に読みづらいし、訳が分からない。眼で読んで黙読すると、その背景のたてる声や色彩の鮮やかさが、立ち上がってこないのです。

『 銀河鉄道の夜 』など、私は小学生のころから、なんども読んでいるのですが、黙読をしていると眠気が襲ってきて、途中でページを閉じて居眠りを繰り返し、完全読破はなかなかできませんでした。

声に出して読むことの面白さが、もう一つあります。自分では普段意識していなない、心の深み、心の奥の領域(感情やイメージ世界)へと連れて行ってもらえるのです。

私たちの日常使っている言葉は、意識と出来事が一意対応です。黙読で、意識(眼)で文章を追っていくときには、言葉とイメージは、私自身の意識(=常識)の範囲内に収まります。

逆から言えば、読み手が文章の側から追い込まれたり、揺さぶられたり、裏切られたりは、小説ではそう簡単には成り立たない。そこは作者(小説家・作家)が、物語りの全編のなかで、工夫して読者の心を引き込んでいくのでしょう。

ところが、声に出して読むというのは、自分の声や他人の声という、生モノを通して、物語と出会うのです。その不安定さゆえに、自分の常識の中に文章を収めて、その言葉を鑑賞するということが出来ない。いきなり自分の実感や常識が打ち破られたところから始まるのが物語り(朗読)です。

打ち砕かれて、心に隙が空き、そこから心とからだの奥に向かって、言葉が飛び込んでくる。その不意打ちを受けて、それを受け取った一人一人の心の奥底から、物語が浮かび上がってくるのです。

ふだんの理解のレベルではなくて、意識下に埋もれているイメージが噴き出して来て物語を彩り、架空の世界の中で、登場者の行動を進展させていく。そのひと時を仲間と共にすることで、物語りにおいては非意識的ないのちの共有が成立するのです。

このような読み方に耐え得る本(物語り)を、私は他に知りません。そこが宮澤賢治作品の類例を見ない、特徴かもしれません。といっても彼の書く文章には、明治時代の歌舞伎や落語の語り口などに、大きな影響を受けているようではありますが。

物語りは、個人の心身の奥底から響きだして来る「言葉」によって成立します。レッスンでは、発声や朗読の技法を学ぶことはありません。むしろ意識的に身に付けた表現の方法(=心身の緊張)を取っ払って、自身の奥底から他者へ向かって表現される「いのち」の姿(個性・真の自分らしさ)を露わにすることを求めます。

「いのち」とか、ユングの言葉では『集合的無意識』などと、ちょっと難しい言葉を使わなければ説明しづらいのですが、要は、自我の仮想する自己を超えたところで、人と人との繋がりやイメージの共有を成立させるのが、『ものがたり』(朗読)の目指すところなのです。

*******

ほんとうに私的に、ワタシ的に朗読と言うことをやってきました。だから一般化できないようです。こんなことやっている人とお目にかかったことが無い。朗読というカテゴリーにも入れて貰えないかも知れないし、入れて貰う必要も感じない。『 ものがたり 』って、ともかく楽しくてたまらない。きっと子供のころの魂が、私の中で物語に飢えて、いまだに繰り返しそれを求めているのかもしれない。ワタシ的朗読の術、みつる式「ものがたり」術とでもしようかな?(瀬戸嶋 充 ばん)

*******

ワークショップのご案内は人間と演劇研究所ホームページをご覧ください。



関連記事
2019年02月01日 (金) | Edit |
2019-01-29 007-ed

からだの中のブラックホールは、無自覚な筋肉の継続的緊張によって成り立っている。拳を「ぎゅっ!」と、握りしめ続けているのと同じだ。拳ならば疲れたら力を抜いて開けばよいが、ブラックホール(常態化・固定化・無感覚化・無自覚化した筋緊張)は緊張を継続する必要がある。そのためには、エネルギーが必要だ。先に「便秘」から解放された女性の例を引いたが、彼女は15年間にわたり、からだの中で拳を握りしめ続けていたことになる。膨大なエネルギーを注いでいたのだ。

ブラックホールの在り様はじつは様々である。股関節をギュッとひきしめ続けている人。骨盤の中身を固めている人、背中にうっすらと膏薬を貼るように、緊張を背負っている人。首を肩口に埋めるように固めている人。脇を絞めっぱなしにしている人。首の後ろ筋を固めて顎をあげている人。胸(胸郭)を張って持ち上げて固めている人。足首をひきしめ続けている人。。。書き出せばキリがない。共通していることは、それらの緊張を当人が意識していない。気づいていないことである。

もとを質せば、当人が過去において、その時の状況の中で自分で身に付けた緊張=姿勢なのだろうが、無自覚になるところまで、それを身に負ってしまっている。便秘の女性(こちらを参照)の場合には葬儀を立派にやり通さなければならないため、極度に身を固めた。その他にも、姿勢を良くしようと努力した結果、背中に緊張を背負ってしまい、その緊張が邪魔をして、かえって背中が曲がってしまった人もいる。10代に足首を痛めてしまい、それをかばう形の緊張が、中年になっても残存して、動きを不自由にしているひと。若いころに整体の指導を受け、以来からだのバランスを崩してしまっている(からだへの操作に対する我慢=継続的緊張の結果として)。。。

これもきりがないが、往々にして外から、あるいは他者や社会からの、身体や態度に関する指示を、本心では嫌々ながらも「我慢」して身に付けた緊張である場合が多いように思う。「我慢」とは自己の感性(個性的な価値観)を無視して、自己に強制する「緊張」である。

簡単に言えば「嫌だ!」と言いたいところを、押し殺して=身を固めて、我慢した結果である。

先日ワークショップに来てくれた女性からメールが届いた。自分は人に嫌だと言えないタイプなのだが、レッスンに参加した次の日に、なぜか友人に「NO」と言えた。これでもう関係が終わるかと思ったが、相手と話ができて、お互いの理解が深まった。と書いてあった。

レッスンの方から言えば、からだのチカラを抜くとは、我慢の蓋(緊張)を外すことなのだから、「いやだ!」という言葉が、飛び出すことはあるだろう。けれども私が気になったのはそのことではない。

「いやだ!」とういうのは相手の「YES!」に「NO!」と言うことである。お互いがその時の話題をはさんで、立場を異にするのである。相容れない私と相手が立ち上がってくる。そこにはお互いの立場を理解する必要が生まれてくる。対話が必要になるのだ。

「嫌だ!」と言わなければお互いが「YES!」の前提に立つことになる。二人してYESなのだから、相互理解など必要が無い。つまり「対話」が必要ないのだ!異なる価値観や意見を持つ同士だからこそ、対話が生まれる。必要となる。

私自身、このことに気がついて、ちょっと茫然としてしまった。以前『NOと言えない日本人』というのが話題になった。ということは、「嫌だ!」と言えない日本人に、そもそも「対話」は成り立たないのだ。

これは江戸時代300年の長期にわたる徳川家支配の中で、日本人の意識の中に刷り込まれた態度なのかもしれない。企業や役所や社会組織の中では、それは「駄目だ!」「違う!」「それが良い!」「そうするべきだ!」という判断・評価はするが、「そんなことをするのはイヤだ!」とは、言わないのではないか。「いや!」と言ったとたんに、私個人が、組織に対して表れてしまう。組織の中の意見というのは、個人の感性に蓋をして、徳川さん(上司・監督者・目上の者・権威者)の意見に照らして実行の良否、価値の有無を判断する。

結局、組織の重役であっても、「嫌だ!」は言ってこなかった人たちだ。「嫌だ!」をいえば、個人としての自分を露わにしてしまう。それは組織と対立する位置に、私個人を置くこととなる。私個人を露わにしたとたん、組織のメンバーではなくなるのだ。

部下を飲み会に誘ったら「パワハラ」で訴えられたという話を、先日、組織の長にあたる人から聞いた。上司はそんなつもりもないし、周りの人からはどうみてもパワハラとは言えないような、出来事だったという。

若い部下の人は、飲み会が「嫌!」だったんだろうなと、私は想像した。安定した企業に就職するために小中高大学とそれなりの成績を納め、企業内に自分のポジションを獲得する。その間に彼女は「イヤだ!」と言葉にしたことが在っただろうか?

「あんたみたいな教師の言うこと聞いてられるか、顔見るのも嫌だ!」「こんなつまらん勉強をしてられるか。学校なんか嫌だ!」、「嫌だ!」を口にすることは、個人で組織と立ち向かうことだ。孤独であり恐怖でもある。世間の引いたレールや、YESを共有することで成り立っている組織から飛び出す。居場所を失い落ちこぼれることになるのだ。

もちろん友人たちの輪からも飛び出さざるを得ない。学生時代の友人関係も「嫌だ!」を基本にしてはいない。若い人たちは、大人とは違う価値観の元に参集しているのだろうが、その土台は共有される価値観への「YES!」である。

「飲み会なんかつまらないからイヤだ!」と言えれば済んだところを、彼女はそれが言えない。そこで自分が飲み会に参加したくないことの正当性を、「パワハラ」の論法を利用して証明する。欠席の理由を自他に納得させるために。

「嫌だ!」は個人的、生理的ともいえる。本来は自分にとって理由など無い。理由を説明して証明したところで、本当の解決にはならない。(最近、自分の夢の実現のため大手企業を退職した若者に、「飲み会」はどうだった?と尋ねたら「つまらなかった」と一言。上司の人は飲み会が詰まらないものとは、全く考えもしないのかもしれない。飲み会は「嫌」か「嫌でないか」を言う前に、YESを共有するためには、必要不可欠なものかもしれない?)

おそらく解決は、誰かが彼女の思いをそれが否定的な考えだとしても、共感を持って聞きとめてあげることだろう。そして対話の道を開くことが必要なのだろう。ところが、彼女の周りにはそれを受け留めてくれる人は、おそらく誰もいないだろう。上司も同僚も組織内の人たちはみな、「嫌だ!」を言わずに生きて来てしまった人たちなのだろうから。優等生になるための第一の条件は「嫌だ!」を言わないことなのだから。自己をむき出しにした、個人と個人の真っ向からの対話を経験してきていない人たちだから。

話が、激しく蛇行してしまったが、我慢(緊張)が降り積もると。それを解放しようとして、からだは様々に不快なサインを意識に送る。それを無視し続ければ、からだの内部にブラックホールが出来上がる。都合の良いことに、筋緊張は無感覚・無自覚なものとなる。意識は苦しさを闇(ブラックホール)に閉じ込めて、そ知らぬふりをする。『無明』という。

けれども「からだ」は、「いのち」は、生きることを願う。ブラックホールを解消しなければ苦しくてたまらない。そのために「いのち」は、ブラックホールを解消しようと意識にうったえる。ブラックホール自体は邪悪でも何でもない。その存在を認めて、ブラックホールが去るための道を空けてあげれば良い。それは身体の中に無自覚に常駐化した筋緊張でしかない。ブラックホールもからだの中に、居たくているわけでは無い。

自我がブラックホールの消え去ろうとするのを、無理やり抑え込んでいるのだ。「ハラハラ」(ハラスメントをハラスメントに利用する人をそう呼ぶそうだ)をする根には、自己のいのちの解放を願う働きが、渦巻いているのではないだろうか。ただし彼・彼女らは、その道を知らずに、論理(自我の働き)に訴えてしまう。誰か彼らのこころの奥底からの「嫌だ!」を受け留めてやれないものだろうか?

蓋(緊張)が取れれば、個性の花はいのちの風を受け、存分にのびのびと咲き誇る。ブラックホールに費やすエネルギーが生命力の解放へと向けられ、その人は輝きを増す!(それは劇空間の中、非日常の場でしか成り立たないかも知れないが、根源的な「いのち」の解放を体験することで、そのような非日常の場を離れても、個人のもつ個性は生き生きと日常の場を彩ることになるだろう)

*******

沖縄の人たちが、日本の国に「嫌だ!」を言っている。「嫌だ!」は日本人にとってタブーなのか?国は、常軌を逸して力ずくで沖縄の人たちの「嫌だ!」を押さえ殺そうとしているように見える。国という組織の中に生きる者(とくに優等生)にとって、「嫌だ!」は恐怖の対象なのだろう。沖縄の人たちやその歴史的な苦労への思いやりや理解など微塵もない。国の指導者たちの内心の声は「怪しからん!」なのだろう。

*******

ワークショップのご案内はこちら、人間と演劇研究所ホームページをご覧ください。

関連記事
2019年01月31日 (木) | Edit |
2019-01-27 016-ed

力を入れると、伸びていた筋肉が縮んで「ぎゅっ!」となる。これが緊張だ。「 緊 」は「ひきしめる」、「 張 」は「はる」。話が進めやすいように、ここではこれを筋肉的緊張あるいは筋緊張と呼ぶ。

「明日試験なのに緊張してしまって眠れなかった」「人前に立つと緊張してしまい何も言えなくなってしまう」「怖いことがあって(緊張して)動けなくなってしまった」こういう時にふつうは「筋肉が緊張してしまった」とは言わない。

この場合、意識に昇るのは、「考えがグルグル回って不安が収まらない!」「言葉に詰まって話そうとするほどにドキドキしてしまって苦しい!」「パニックになってしまい、コントロールが効かない!」というような、通常の平静な状態からはみ出してしまった気分と体感である。意識から見た緊張なので心的緊張という。心緊張とも。

筋肉的緊張であるが、この緊張はじつは意識に昇ることが無い。筋肉が縮んで強張ると、筋肉の中を通る神経や血管は圧迫されて、感覚は遮断あるいは鈍麻される。筋肉内の感覚が遮断されれば、脳への情報は届かなくなる。からだの中の『ブラックホール』である。

以前、大阪で身体の緊張(筋緊張)をほどいていくレッスンをした時のことだが、中年の女性から声をかけられた。恥ずかしそうに「じつは前回このレッスンを受けてから、便秘が治った・・・らしい?」というのである。

もう十数年ほどひどい便秘が続いていて、医療はもちろんヒサヤ大黒堂やら何やら、ありとあらゆる手を尽くしたのだが、全く効果が無かったのが治ってしまったというのである。

話を聞いていくと、彼女は商家の長女で、15年前に先代が亡くなった時に、大規模な葬儀を、必死に一人で切り盛りしたという。それ以来便秘が続いていたことを思い出したというのである。葬儀と便秘とが関連あるとは考えてはいなかったようだ。

大阪の商家の葬儀がどんなものか、私は知らないが、まだ若い身空で、親戚筋や取引先に粗相のないように、自分の苦労や無力感を身を固めて押し殺し、何とか勤めを果たしたようだ。

身を固めて、つまり身体を緊張させて、心の不安を払拭することで、乗り切ったのだろう。その時の過度の筋肉的緊張=筋肉の強張りが、葬儀の終わった後も身体のどこかに残っていて、消化器系の正常・自然な働きを、物理的に阻害していたのだろう。

先に述べたように、身体内に筋緊張のブラックホールを抱えていたのである。

お医者さんは、筋肉の強張りを観ない。あまりひどい場合は、神経内科を紹介されるだろう。

心因性とされれば脳や神経の異常を探すが、医者も当人もブラックホール(常態化・固定化・無感覚化した筋緊張)をその原因と見ることは無いだろう。便秘を腸などの消化器系の問題と見たとしても、やはり筋肉の強張りは見落とされる。

ところが、常態化してしまった筋肉の緊張に気づき、それを解除する=「ゆるめる」ことで、便秘が解消されたのである。ブラックホールが彼女の身体の中で15年の歳月に渡って、いたずらをし続けていたのだ。

ブラックホールは意識に昇らない。けれどもそれは、身体内の自然な活動、血流の循環や調整作用を物理的に阻害する。ブラックホール自体は信号を発することが無いが、その周辺の器官の働きやその他の筋肉の十全な働きを妨げ、その結果としてそれらの健全な器官が不快感を信号として脳に届ける。

気分が落ち着かない、気分が重い、動悸が止まらない。イライラする。心が休まらない。胃が重たい。肩こりがする。片頭痛、異常な痛みなど、心的緊張としてブラックホール警戒警報が、私たちに意識されるのである。

ふつう医療は、心的不安や不安感・不快感を病態として、器官や脳や神経(物理)に、或いは心の在り方(心理)にその原因を求める。ところがそんなところに原因は無いのである。

それらの症状は、「からだ」の自然な働きが損なわれていることを知らせる「サイン(信号)」である。サイン自体に意味はない。それをいくらこねくり回しても、そこに原因は無い。つまり心的緊張を相手にしても無駄なのだ。

からだに、無理・無自覚に背負わせた緊張=ブラックホールを解消すれば、私たちの内的な自然な働き=「いのち」が、自ずから活躍して心身の安定を取り戻してくれるのである。

ただし、ブラックホールはそれ自体意識で知覚・感覚が出来ない。自分で身体の中を探しても見当たらないのである。これが力を抜くことの難しいところ。チカラが入っているのが分からない!それは誰もがそうなのですが。不思議です。

身体の中の「ぎゅっ!」を、発見してそれを「ゆるゆる~」すれば良いだけなのですが (笑)

*******

『 からだとことばといのちのレッスン 』とは、治療法や整体術や心身修養法では?と言われそうなので、言い訳を以下に (笑)

踊るとき、歌うとき、声を発するとき、言葉を語るとき、、、要は、、コミュニケーション全般を含めた、表現(=「いのち」の表れ)が成立するためには、このブラックホールの解除が必須のこととなります。

例えば、踊るときにブラックホール(=無自覚に常駐化した筋緊張)は伸びやかに自由に動くことを妨げます。発声のときにはこのブラックホールが声の通り道をふさいでしまう。自分の思い通りに表現をしようとしても、表現された結果はブラックホールによって歪められてしまいます。人と繋がろうとしても、ブラックホールが蓋をしてしまう。表現が成り立つためには、ブラックホールの解消が、必須なのです。

便秘を治すのが、レッスンの目的ではないし、まして私(瀬戸嶋)自身は治療家やセラピストではありません。表現(物語り)によって人と人とが真っすぐに繋がり、個々の個性が花開くために、レッスンを一処懸命やっているオマケみたいなものですね。かっこよく言えばレッスンを本気でやったことに対する「ギフト」かな?便秘から解放されたときの清々しさ!わかる人にはわかるだろうな。表現が成り立った時も、同じですね (笑)

*******

ワークショップのご案内はこちら人間と演劇研究所ホームページをご覧ください。

関連記事