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2019年02月09日 (土) | Edit |
2019-01-29 003-ed 

ワークショップでは、宮澤賢治さんの書いた物語りを、資料(台本・話材)として利用することが多い。

『 鹿踊りのはじまり 』『 どんぐりと山猫 』『 セロ弾きのゴーシュ 』『 注文の多い料理店 』『 狼森と笊森、盗森 』『 雪渡り 』『 水仙月の四日 』『 かしわばやしの夜 』『 ひのきとひなげし 』『 夜だかの星 』『 銀河鉄道の夜 』『 虔十公園林 』・・・。ざっと思い浮かぶところで、こんなにある。

レッスンの場では、これらを声に出して読むのだ。すると不思議なことに、これらの物語りの内容=世界が、その場に立ち上がってくる。

私はその面白さ=不思議さに憑りつかれたように、賢治さんの童話を何度もなんども、声に出して読むことを繰り返している。

「 そこらがまだまるっきり、丈高い草や黒い林のままだったとき 嘉十(カジュウ)はおじいさんたちと一緒に、北上川の東から移ってきて、小さな畑をひらいて、粟(アワ)や稗を作っていました。あるとき嘉十は栗の木から落ちて、少し左の膝を悪くしました。そんな時、みんなはいつでも、西の山の中の湯の湧くとこへ行って、小屋を架けて泊って治すのでした。天気の良い日に嘉十も出かけて行きました。」(『 鹿踊りのはじまり 』より)

こんな文章を、ワークショップの参加者が、みんなに向かって声を出して語っていく。するとそこに北上の山の中の光景が浮かび上がって来る。語り手も聞き手も一緒に、現実の時空間を離れて、眼の前の物語の世界の中での出来事を、実際に体験していくのです。

嘉十が空き地(広場)に置いていった、ひと欠片(カケラ)の栃団子をめぐって、鹿どもが、遊び・唄い・踊り・はんの木と太陽に祈りをささげる。そんな愉快とも荘厳ともいえるような光景との出会いを、語り手や聞き手は、嘉十や鹿になって、共に体験することが出来るのです。

賢治さんの文章の凄さはこの辺りにあります。賢治さんの物語りでは、物語の登場者としての、人物や動物の交流の他に、その背景となる自然の光景として、木々や草、岩石鉱物さえもが、生き物(登場者)として描かれているのです。

「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」(『注文の多い料理店』より)これらの「どう」・「ざわざわ」・「かさかさ」・「ごとんごとん」、これらは声に出して読むとき、擬態語ではありません。森のいのちが語る言葉(声)として、それを聞く者の心(=からだ)に迫り、内心に震えを起こします。賢治童話の中では、登場者が生きて活動するのと同じように、背景も息づいています。

ふつうの小説では、それぞれの場の雰囲気が、背景(地の文)として書きこまれていますが、それは固定したものです。背景自体が登場人物と対等に物申すようでは、小説にはならないのかも知れません。

また、背景が精密・緻密になりすぎると、内容となる出来事の進行が、背景の中に埋もれてしまいます。ふつうの小説は、声にして語ることよりも、目で読むほうに重きを置き、背景は、主人公の行動や心理を浮かび上がらせるためのバックスクリーン(黒幕・白幕)なのでしょう。

賢治作品を普通の小説のように黙読で読破しようとすると、非常に読みづらいし、訳が分からない。眼で読んで黙読すると、その背景のたてる声や色彩の鮮やかさが、立ち上がってこないのです。

『 銀河鉄道の夜 』など、私は小学生のころから、なんども読んでいるのですが、黙読をしていると眠気が襲ってきて、途中でページを閉じて居眠りを繰り返し、完全読破はなかなかできませんでした。

声に出して読むことの面白さが、もう一つあります。自分では普段意識していなない、心の深み、心の奥の領域(感情やイメージ世界)へと連れて行ってもらえるのです。

私たちの日常使っている言葉は、意識と出来事が一意対応です。黙読で、意識(眼)で文章を追っていくときには、言葉とイメージは、私自身の意識(=常識)の範囲内に収まります。

逆から言えば、読み手が文章の側から追い込まれたり、揺さぶられたり、裏切られたりは、小説ではそう簡単には成り立たない。そこは作者(小説家・作家)が、物語りの全編のなかで、工夫して読者の心を引き込んでいくのでしょう。

ところが、声に出して読むというのは、自分の声や他人の声という、生モノを通して、物語と出会うのです。その不安定さゆえに、自分の常識の中に文章を収めて、その言葉を鑑賞するということが出来ない。いきなり自分の実感や常識が打ち破られたところから始まるのが物語り(朗読)です。

打ち砕かれて、心に隙が空き、そこから心とからだの奥に向かって、言葉が飛び込んでくる。その不意打ちを受けて、それを受け取った一人一人の心の奥底から、物語が浮かび上がってくるのです。

ふだんの理解のレベルではなくて、意識下に埋もれているイメージが噴き出して来て物語を彩り、架空の世界の中で、登場者の行動を進展させていく。そのひと時を仲間と共にすることで、物語りにおいては非意識的ないのちの共有が成立するのです。

このような読み方に耐え得る本(物語り)を、私は他に知りません。そこが宮澤賢治作品の類例を見ない、特徴かもしれません。といっても彼の書く文章には、明治時代の歌舞伎や落語の語り口などに、大きな影響を受けているようではありますが。

物語りは、個人の心身の奥底から響きだして来る「言葉」によって成立します。レッスンでは、発声や朗読の技法を学ぶことはありません。むしろ意識的に身に付けた表現の方法(=心身の緊張)を取っ払って、自身の奥底から他者へ向かって表現される「いのち」の姿(個性・真の自分らしさ)を露わにすることを求めます。

「いのち」とか、ユングの言葉では『集合的無意識』などと、ちょっと難しい言葉を使わなければ説明しづらいのですが、要は、自我の仮想する自己を超えたところで、人と人との繋がりやイメージの共有を成立させるのが、『ものがたり』(朗読)の目指すところなのです。

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ほんとうに私的に、ワタシ的に朗読と言うことをやってきました。だから一般化できないようです。こんなことやっている人とお目にかかったことが無い。朗読というカテゴリーにも入れて貰えないかも知れないし、入れて貰う必要も感じない。『 ものがたり 』って、ともかく楽しくてたまらない。きっと子供のころの魂が、私の中で物語に飢えて、いまだに繰り返しそれを求めているのかもしれない。ワタシ的朗読の術、みつる式「ものがたり」術とでもしようかな?(瀬戸嶋 充 ばん)

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ワークショップのご案内は人間と演劇研究所ホームページをご覧ください。



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2019年02月01日 (金) | Edit |
2019-01-29 007-ed

からだの中のブラックホールは、無自覚な筋肉の継続的緊張によって成り立っている。拳を「ぎゅっ!」と、握りしめ続けているのと同じだ。拳ならば疲れたら力を抜いて開けばよいが、ブラックホール(常態化・固定化・無感覚化・無自覚化した筋緊張)は緊張を継続する必要がある。そのためには、エネルギーが必要だ。先に「便秘」から解放された女性の例を引いたが、彼女は15年間にわたり、からだの中で拳を握りしめ続けていたことになる。膨大なエネルギーを注いでいたのだ。

ブラックホールの在り様はじつは様々である。股関節をギュッとひきしめ続けている人。骨盤の中身を固めている人、背中にうっすらと膏薬を貼るように、緊張を背負っている人。首を肩口に埋めるように固めている人。脇を絞めっぱなしにしている人。首の後ろ筋を固めて顎をあげている人。胸(胸郭)を張って持ち上げて固めている人。足首をひきしめ続けている人。。。書き出せばキリがない。共通していることは、それらの緊張を当人が意識していない。気づいていないことである。

もとを質せば、当人が過去において、その時の状況の中で自分で身に付けた緊張=姿勢なのだろうが、無自覚になるところまで、それを身に負ってしまっている。便秘の女性(こちらを参照)の場合には葬儀を立派にやり通さなければならないため、極度に身を固めた。その他にも、姿勢を良くしようと努力した結果、背中に緊張を背負ってしまい、その緊張が邪魔をして、かえって背中が曲がってしまった人もいる。10代に足首を痛めてしまい、それをかばう形の緊張が、中年になっても残存して、動きを不自由にしているひと。若いころに整体の指導を受け、以来からだのバランスを崩してしまっている(からだへの操作に対する我慢=継続的緊張の結果として)。。。

これもきりがないが、往々にして外から、あるいは他者や社会からの、身体や態度に関する指示を、本心では嫌々ながらも「我慢」して身に付けた緊張である場合が多いように思う。「我慢」とは自己の感性(個性的な価値観)を無視して、自己に強制する「緊張」である。

簡単に言えば「嫌だ!」と言いたいところを、押し殺して=身を固めて、我慢した結果である。

先日ワークショップに来てくれた女性からメールが届いた。自分は人に嫌だと言えないタイプなのだが、レッスンに参加した次の日に、なぜか友人に「NO」と言えた。これでもう関係が終わるかと思ったが、相手と話ができて、お互いの理解が深まった。と書いてあった。

レッスンの方から言えば、からだのチカラを抜くとは、我慢の蓋(緊張)を外すことなのだから、「いやだ!」という言葉が、飛び出すことはあるだろう。けれども私が気になったのはそのことではない。

「いやだ!」とういうのは相手の「YES!」に「NO!」と言うことである。お互いがその時の話題をはさんで、立場を異にするのである。相容れない私と相手が立ち上がってくる。そこにはお互いの立場を理解する必要が生まれてくる。対話が必要になるのだ。

「嫌だ!」と言わなければお互いが「YES!」の前提に立つことになる。二人してYESなのだから、相互理解など必要が無い。つまり「対話」が必要ないのだ!異なる価値観や意見を持つ同士だからこそ、対話が生まれる。必要となる。

私自身、このことに気がついて、ちょっと茫然としてしまった。以前『NOと言えない日本人』というのが話題になった。ということは、「嫌だ!」と言えない日本人に、そもそも「対話」は成り立たないのだ。

これは江戸時代300年の長期にわたる徳川家支配の中で、日本人の意識の中に刷り込まれた態度なのかもしれない。企業や役所や社会組織の中では、それは「駄目だ!」「違う!」「それが良い!」「そうするべきだ!」という判断・評価はするが、「そんなことをするのはイヤだ!」とは、言わないのではないか。「いや!」と言ったとたんに、私個人が、組織に対して表れてしまう。組織の中の意見というのは、個人の感性に蓋をして、徳川さん(上司・監督者・目上の者・権威者)の意見に照らして実行の良否、価値の有無を判断する。

結局、組織の重役であっても、「嫌だ!」は言ってこなかった人たちだ。「嫌だ!」をいえば、個人としての自分を露わにしてしまう。それは組織と対立する位置に、私個人を置くこととなる。私個人を露わにしたとたん、組織のメンバーではなくなるのだ。

部下を飲み会に誘ったら「パワハラ」で訴えられたという話を、先日、組織の長にあたる人から聞いた。上司はそんなつもりもないし、周りの人からはどうみてもパワハラとは言えないような、出来事だったという。

若い部下の人は、飲み会が「嫌!」だったんだろうなと、私は想像した。安定した企業に就職するために小中高大学とそれなりの成績を納め、企業内に自分のポジションを獲得する。その間に彼女は「イヤだ!」と言葉にしたことが在っただろうか?

「あんたみたいな教師の言うこと聞いてられるか、顔見るのも嫌だ!」「こんなつまらん勉強をしてられるか。学校なんか嫌だ!」、「嫌だ!」を口にすることは、個人で組織と立ち向かうことだ。孤独であり恐怖でもある。世間の引いたレールや、YESを共有することで成り立っている組織から飛び出す。居場所を失い落ちこぼれることになるのだ。

もちろん友人たちの輪からも飛び出さざるを得ない。学生時代の友人関係も「嫌だ!」を基本にしてはいない。若い人たちは、大人とは違う価値観の元に参集しているのだろうが、その土台は共有される価値観への「YES!」である。

「飲み会なんかつまらないからイヤだ!」と言えれば済んだところを、彼女はそれが言えない。そこで自分が飲み会に参加したくないことの正当性を、「パワハラ」の論法を利用して証明する。欠席の理由を自他に納得させるために。

「嫌だ!」は個人的、生理的ともいえる。本来は自分にとって理由など無い。理由を説明して証明したところで、本当の解決にはならない。(最近、自分の夢の実現のため大手企業を退職した若者に、「飲み会」はどうだった?と尋ねたら「つまらなかった」と一言。上司の人は飲み会が詰まらないものとは、全く考えもしないのかもしれない。飲み会は「嫌」か「嫌でないか」を言う前に、YESを共有するためには、必要不可欠なものかもしれない?)

おそらく解決は、誰かが彼女の思いをそれが否定的な考えだとしても、共感を持って聞きとめてあげることだろう。そして対話の道を開くことが必要なのだろう。ところが、彼女の周りにはそれを受け留めてくれる人は、おそらく誰もいないだろう。上司も同僚も組織内の人たちはみな、「嫌だ!」を言わずに生きて来てしまった人たちなのだろうから。優等生になるための第一の条件は「嫌だ!」を言わないことなのだから。自己をむき出しにした、個人と個人の真っ向からの対話を経験してきていない人たちだから。

話が、激しく蛇行してしまったが、我慢(緊張)が降り積もると。それを解放しようとして、からだは様々に不快なサインを意識に送る。それを無視し続ければ、からだの内部にブラックホールが出来上がる。都合の良いことに、筋緊張は無感覚・無自覚なものとなる。意識は苦しさを闇(ブラックホール)に閉じ込めて、そ知らぬふりをする。『無明』という。

けれども「からだ」は、「いのち」は、生きることを願う。ブラックホールを解消しなければ苦しくてたまらない。そのために「いのち」は、ブラックホールを解消しようと意識にうったえる。ブラックホール自体は邪悪でも何でもない。その存在を認めて、ブラックホールが去るための道を空けてあげれば良い。それは身体の中に無自覚に常駐化した筋緊張でしかない。ブラックホールもからだの中に、居たくているわけでは無い。

自我がブラックホールの消え去ろうとするのを、無理やり抑え込んでいるのだ。「ハラハラ」(ハラスメントをハラスメントに利用する人をそう呼ぶそうだ)をする根には、自己のいのちの解放を願う働きが、渦巻いているのではないだろうか。ただし彼・彼女らは、その道を知らずに、論理(自我の働き)に訴えてしまう。誰か彼らのこころの奥底からの「嫌だ!」を受け留めてやれないものだろうか?

蓋(緊張)が取れれば、個性の花はいのちの風を受け、存分にのびのびと咲き誇る。ブラックホールに費やすエネルギーが生命力の解放へと向けられ、その人は輝きを増す!(それは劇空間の中、非日常の場でしか成り立たないかも知れないが、根源的な「いのち」の解放を体験することで、そのような非日常の場を離れても、個人のもつ個性は生き生きと日常の場を彩ることになるだろう)

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沖縄の人たちが、日本の国に「嫌だ!」を言っている。「嫌だ!」は日本人にとってタブーなのか?国は、常軌を逸して力ずくで沖縄の人たちの「嫌だ!」を押さえ殺そうとしているように見える。国という組織の中に生きる者(とくに優等生)にとって、「嫌だ!」は恐怖の対象なのだろう。沖縄の人たちやその歴史的な苦労への思いやりや理解など微塵もない。国の指導者たちの内心の声は「怪しからん!」なのだろう。

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2019年01月31日 (木) | Edit |
2019-01-27 016-ed

力を入れると、伸びていた筋肉が縮んで「ぎゅっ!」となる。これが緊張だ。「 緊 」は「ひきしめる」、「 張 」は「はる」。話が進めやすいように、ここではこれを筋肉的緊張あるいは筋緊張と呼ぶ。

「明日試験なのに緊張してしまって眠れなかった」「人前に立つと緊張してしまい何も言えなくなってしまう」「怖いことがあって(緊張して)動けなくなってしまった」こういう時にふつうは「筋肉が緊張してしまった」とは言わない。

この場合、意識に昇るのは、「考えがグルグル回って不安が収まらない!」「言葉に詰まって話そうとするほどにドキドキしてしまって苦しい!」「パニックになってしまい、コントロールが効かない!」というような、通常の平静な状態からはみ出してしまった気分と体感である。意識から見た緊張なので心的緊張という。心緊張とも。

筋肉的緊張であるが、この緊張はじつは意識に昇ることが無い。筋肉が縮んで強張ると、筋肉の中を通る神経や血管は圧迫されて、感覚は遮断あるいは鈍麻される。筋肉内の感覚が遮断されれば、脳への情報は届かなくなる。からだの中の『ブラックホール』である。

以前、大阪で身体の緊張(筋緊張)をほどいていくレッスンをした時のことだが、中年の女性から声をかけられた。恥ずかしそうに「じつは前回このレッスンを受けてから、便秘が治った・・・らしい?」というのである。

もう十数年ほどひどい便秘が続いていて、医療はもちろんヒサヤ大黒堂やら何やら、ありとあらゆる手を尽くしたのだが、全く効果が無かったのが治ってしまったというのである。

話を聞いていくと、彼女は商家の長女で、15年前に先代が亡くなった時に、大規模な葬儀を、必死に一人で切り盛りしたという。それ以来便秘が続いていたことを思い出したというのである。葬儀と便秘とが関連あるとは考えてはいなかったようだ。

大阪の商家の葬儀がどんなものか、私は知らないが、まだ若い身空で、親戚筋や取引先に粗相のないように、自分の苦労や無力感を身を固めて押し殺し、何とか勤めを果たしたようだ。

身を固めて、つまり身体を緊張させて、心の不安を払拭することで、乗り切ったのだろう。その時の過度の筋肉的緊張=筋肉の強張りが、葬儀の終わった後も身体のどこかに残っていて、消化器系の正常・自然な働きを、物理的に阻害していたのだろう。

先に述べたように、身体内に筋緊張のブラックホールを抱えていたのである。

お医者さんは、筋肉の強張りを観ない。あまりひどい場合は、神経内科を紹介されるだろう。

心因性とされれば脳や神経の異常を探すが、医者も当人もブラックホール(常態化・固定化・無感覚化した筋緊張)をその原因と見ることは無いだろう。便秘を腸などの消化器系の問題と見たとしても、やはり筋肉の強張りは見落とされる。

ところが、常態化してしまった筋肉の緊張に気づき、それを解除する=「ゆるめる」ことで、便秘が解消されたのである。ブラックホールが彼女の身体の中で15年の歳月に渡って、いたずらをし続けていたのだ。

ブラックホールは意識に昇らない。けれどもそれは、身体内の自然な活動、血流の循環や調整作用を物理的に阻害する。ブラックホール自体は信号を発することが無いが、その周辺の器官の働きやその他の筋肉の十全な働きを妨げ、その結果としてそれらの健全な器官が不快感を信号として脳に届ける。

気分が落ち着かない、気分が重い、動悸が止まらない。イライラする。心が休まらない。胃が重たい。肩こりがする。片頭痛、異常な痛みなど、心的緊張としてブラックホール警戒警報が、私たちに意識されるのである。

ふつう医療は、心的不安や不安感・不快感を病態として、器官や脳や神経(物理)に、或いは心の在り方(心理)にその原因を求める。ところがそんなところに原因は無いのである。

それらの症状は、「からだ」の自然な働きが損なわれていることを知らせる「サイン(信号)」である。サイン自体に意味はない。それをいくらこねくり回しても、そこに原因は無い。つまり心的緊張を相手にしても無駄なのだ。

からだに、無理・無自覚に背負わせた緊張=ブラックホールを解消すれば、私たちの内的な自然な働き=「いのち」が、自ずから活躍して心身の安定を取り戻してくれるのである。

ただし、ブラックホールはそれ自体意識で知覚・感覚が出来ない。自分で身体の中を探しても見当たらないのである。これが力を抜くことの難しいところ。チカラが入っているのが分からない!それは誰もがそうなのですが。不思議です。

身体の中の「ぎゅっ!」を、発見してそれを「ゆるゆる~」すれば良いだけなのですが (笑)

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『 からだとことばといのちのレッスン 』とは、治療法や整体術や心身修養法では?と言われそうなので、言い訳を以下に (笑)

踊るとき、歌うとき、声を発するとき、言葉を語るとき、、、要は、、コミュニケーション全般を含めた、表現(=「いのち」の表れ)が成立するためには、このブラックホールの解除が必須のこととなります。

例えば、踊るときにブラックホール(=無自覚に常駐化した筋緊張)は伸びやかに自由に動くことを妨げます。発声のときにはこのブラックホールが声の通り道をふさいでしまう。自分の思い通りに表現をしようとしても、表現された結果はブラックホールによって歪められてしまいます。人と繋がろうとしても、ブラックホールが蓋をしてしまう。表現が成り立つためには、ブラックホールの解消が、必須なのです。

便秘を治すのが、レッスンの目的ではないし、まして私(瀬戸嶋)自身は治療家やセラピストではありません。表現(物語り)によって人と人とが真っすぐに繋がり、個々の個性が花開くために、レッスンを一処懸命やっているオマケみたいなものですね。かっこよく言えばレッスンを本気でやったことに対する「ギフト」かな?便秘から解放されたときの清々しさ!わかる人にはわかるだろうな。表現が成り立った時も、同じですね (笑)

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2019年01月25日 (金) | Edit |
2019-01-13 008-ed

息をするとは、全身運動であること。そしてそれは一人残らず誰もがやっている呼吸であること。それを私たちが意識しているか否かには関係なく。

簡単なことである。身体を風船と考えればよい。口や鼻から入った空気は、身体を内側から膨らませる。実際には、横隔膜を下降させることで空気を取り込み肺が膨らむ。横隔膜の下降圧迫によって、お腹が膨らむ。ここまでは腹式呼吸に興味を持ったことのある人なら、当然のことと捉えるだろう。

然しながらである。横隔膜の下降圧迫による身体内圧の変化が、足の先まで届くと考える人には生憎とお目にかかったことがない。と言うことは、現代人はかなり片寄った呼吸法しか知らないと言うことになる。

赤ん坊が泣き叫ぶ様子を観ればよく解るだろう。泣き声に伴う呼吸は全身的なものである。もちろん手足の先まで、生き生きと息が届いている。赤ん坊の握った小さな拳など、まるで息を逃すものかと、握りしめているようだ。大人に成ったからと言って、それが無くなるわけがない。

身体は皮膚で包まれた、風船のようなもの。内圧の変化は身体の隅々まで伝わる。意識がそれと感じるかどうかなど、問題にはならない。意識・理解以前の事実である。

身体の70%ほどは水分だと言うから、皮膚に包まれた水枕あるいは氷のうと観るのも良いだろう。水枕の一端を押しつぶせば、水圧が移動して他のところが膨らむ。あまり気張ると、脳の血管が切れるなどと言うのも、内圧が身体を伝わる証拠だろう。

息が出たり入ったりすれば、身体全体もその隅々まで、萎んだり膨らんだりを繰り返している。呼吸をしている以上、私たちは否応もなく全身呼吸・全身運動をしているのだ。これが理屈(エビデンス)抜きの事実!!

江戸時代の禅僧 白隠慧鶴さんがその著作の中で「息は踵でしなさい」と書いている。そんなこと言われる前に、私たちは踵(足裏)で息をしているのだ。

ただしである。呼吸に伴う、全身の変化は微細であるため、私たちの粗雑な感性では捉えること、意識することが出来ない。私たちは意識できないもの、つまり自らの五感を持って捉えられないものを、無き者として無視する傾向にある。私たち自身の五感の鈍さをそっちのけにして、ものごとの精妙微妙さを知ろうとはしないで打ち捨て、意(エビデンス)に沿わないと非難さえする。自我の性格である。

それでいて現代人は、意識(私・自我)に理解不可能なものは無い。意識的努力によって全ては到達・達成可能である。意識は絶対であると思い込んでいる節(伏し?)がある。

白隠さんの遺した、呼吸法や身体法の素晴らしさが、今に活かされていない理由は、現代人の意識を支える五感の鈍さ、あるいは粗雑さによる。白隠さんの感性の鋭さは、その禅画と墨蹟を見ればわかる。鋭さを支えているのは、精妙微妙な変化を感じとることのできる、彼の感性である。奥行きのある筆画だ。それは彼自らの全身の呼吸の実践があってのことだろう。

話は飛ぶが、私は禅堂で一度だけ、三泊四日の修行を受けたことがある。結跏趺坐で自分の呼吸を延々と数え続ける。交差した脚の脛が息を吸うたびに、焼け付くように痛む。息を吸えば胸・腹だけではなく、足・脚の中まで内圧が高まるのである。痛みによって、足・脚の感覚が呼び覚まされる。呼吸とは全身的なものであると思い知らされた。

私のレッスンの場に、自分は腹式呼吸、或いは丹田呼吸や横隔膜式呼吸が出来ていると言ってくる人がいる。脚で呼吸が出来ているという人もいた。どこかで呼吸法の指導を受けてきたようで、誰からそんな呼吸法を習ってきたのだと、問いただしたくなる。なぜなら、そういう人に限って先ず全身呼吸が出来ていないのである。

お腹は良く動くいているが、腰の後ろや股関節が固まっている人。お腹(前腹)を動かすことに努力をしたのだろう。腰廻りや股関節から先、足・脚先までの感覚(神経)が、筋肉のこわ張り(緊張)によって阻害されている。

横隔膜やお腹が良く動き、お腹に力が入るのが良い呼吸と思い込み、あるいは思い込まされて、努力を重ねた結果としての緊張、身体の強張りである。にもかかわらず、それらは全身呼吸を阻害するのである。そのためどんなにお腹が動いても、息は浅くて狭い。

足・脚の中身がガチガチに固まっているのに、私は足で息していますという人もいる。よく見ると、頭の中で描いた流れのイメージを自分の足・脚に投影しているだけ。幻覚である。固めて(緊張して)いては、感覚は働かない。足・脚の中の変化を意識(感覚)で捉えることが出来るはずがない。

全身呼吸(運動)が阻害されていては、どんな呼吸法も意味が無い。強い言いかたをすれば全身呼吸を前提としない呼吸法は「害悪」である。「からだ」=人間の歪みを生み出すのだ。呼吸法を立派に云々する人には注意をした方が良い。

息をすることは全身運動だと、初めに書いた。そしてそれは誰でもできているとも。では呼吸法など練習する必要がないではないかと言われるかもしれない。

それはその通りであるが、生憎と私たちは、全身呼吸を阻害するような身体の使い方を、大人になる過程で、無自覚のうちに様々に身に付けている。あるいは着けさせられている。

原因は、からだの内に潜む緊張である。知らぬ間に身内に潜めた筋肉の緊張は、感覚神経の働きを鈍くし阻害する。血管や体内の組織をも圧迫し巡りを滞らせる。そのため緊張自体は意識に昇ることが無い。要は身体の中に感知不能なブラックホールを抱えるようなものである。筋肉を引き締めて強張らしていては、微細微妙な変化を感じることはできない。

こんなふうに書くとたいそうなことだと思うかも知れない。けれども解決策は簡単である。筋緊張を緩めて、微細な変化を感じれるようにする。その新たに得られた感覚を脳の記憶に追加していけば良い。繊細微細微妙(=無限小=無限大)へと脳の認識能力を拡張してやるのである。結果として手脚にとどまらず、全身の内側の変化を感じとれるようになってくる。

赤ん坊は無自覚に全身運動としての呼吸をしている。これは知識や経験を前提としない、天与のものである。「いのち」の働きそのものである。そして我々大人は、その自然から与えられた呼吸をあらためて学ぶのだ。身に付けた余計な歪み=緊張・強張りを取り去ればよい。体内を吹き抜ける息の動きを意識できるようになる。それが「いき」(息・呼吸)が出来るようになると言うことだ。

放っておいても全身呼吸は出来ているが、それを十全に活用することで、私たちの心身は、自然に個性としての花を開く。また全身呼吸は全身運動でもある。身体と意識が快活に働く。

ふつう「学ぶ」と言うことは、「出来ないことが出来るようになる。教師の側からすれば、生徒が出来ていないから出来るようにしてやる。生徒は努力をして出来ないことが出来るようになる。」いろいろなことが出来るようになることが学んだ成果であり、その豊富さ(量)が成長であると認める。このようなごく一般的な「学び」の捉え方に、私は信頼を置いていない。

息(呼吸)ひとつを取ってもそうだ。誰もが出来ている、けれどもそれと気がついていないことがある。それを意識の視野に出してやる。

少々荒っぽい拡大解釈になるが、個人的にはその人が気がついているかどうかは別にして、その人ならではの個性=まだはっきりとは自覚されることはないが、既にその人の中から姿を覗かせようとしている独自の人間性。その人の中に既に働いていながら、意識からは認識されていないもの。それの現れを手助けするのが教師の役割である。

個性は一人一人の中にあり、それがその当人を育てる力である。「学ぶ」と言うことの結果は、より自分が本来の自分らしくなることでしかない。自分が本来の自分に近づく程に、世界は繰り返し新たな姿を見せてくれる。これが豊かさである。外から取って付けること、他者よりより有能になることを、私は「学び」として認めたくないのだ。

学びとは、あれこれと自分に取って付けることではなくて、自分の中に潜んでいる本来の自分を露わにしていくことである。取って付けたものは邪魔にしかならない。粗雑な意識を、繰り返し剥いでいったその果てには「いのち」との出会いが待っている。それは喜びを伴う過程である。その結果として自分自身が「いのち」の現れであることを識るのだ。

呼吸の話が、いつの間にやら教育の話へと、だいぶ大ぶろしきを拡げてしまいました。私は竹内敏晴・野口三千三に師事する以前に、林竹二(哲学者・教育者・宮城大学学長)に私淑しており、彼の著作と実践の記録によって二十歳(ハタチ)のころに「魂」をゆすぶられた。その際に「いのち」が手放しとなり、私に道を開いた。その後は「いのち」の風に吹かれて、竹内レッスンと野口体操に取り組むことで40年近い歳月を費やした。このごろようやく竹内・野口の峠を越えたように思うが、こんどは林竹二の教育実践『授業』が、私の前に立ちはだかっている。

日本語の「い」は「息」を表す。「ち」は「力」あるいは「はたらき」である。「いのち」は「いき-の-ちから」(息の力)である。「息」(呼吸)を学ぶと言うことは「いのちを学ぶ」こと。多様性は全て「いのち」の中に収められている。意識の思い付きで、あれやこれやを出まかせに作り出し差別化するのが多様性ではない。

わたしは、こんな風に考えている。一人一人の人が「いのち」を学ぶ、手がかりになれば素敵だと思う。足・脚を引っ張るのでなければよいが (笑)

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2019年01月23日 (水) | Edit |
2019-01-13 011-ed

五感で捉えることが出来ないのが「いのち」。
そう言うと第六感とか、高次の意識とか言い始める人がいるが、これも五感による体験をベースにした認識法であることに変わりはない。五感で捉えられぬのに、あたかも五感で捉えることが出来るような幻想・勘違い。

では「いのち」を五感で捉えるにはどうすれば良いか?詩や物語がその役割を担っているようだ。

大正時代に、詩人 西條 八十 が訳詞をした童謡に『 風 』(誰が風を見たでしょう)がある。

誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木(こ)の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく

誰が風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど樹立(こだち)が頭をさげて
風は通りすぎてゆく

以下、クリスティーナ・ロセッティによる原詩

Who has seen the wind?
Neither I nor you;
But when the leaves hang trembling
The wind is passing thro'.

Who has seen the wind?
Neither you nor I;
But when the trees bow down their heads
The wind is passing by.

「いのち」の在りようを、「風」に託して歌っている。「風」が「いのち」そのものではない。「風」に譬えて「いのち」の働きを伝えている。

「誰が風を見たでしょう 僕もあなたも見やしない」、この場合は「見る」、つまり視覚=眼には捉えることが出来ないと言っているが、聴覚についても同様である。葉擦れの音を立てるのは、木立であって「風」そのものではない。五感の他の感覚についても同様である。

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の中にも、そのような記述がある。

「七、北十字とプリオシン海岸」ジョバンニとカンパネルラが、銀河の河原に降り立った箇所に、
「 河原の礫(こいし)は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉(トパース)や、またくしゃくしゃの皺曲(しゅうきょく)をあらわしたのや、また稜(かど)から霧(きり)のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮(う)いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光(りんこう)をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。」

引用文中の「水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。」、やはり銀河の流れ自体は、五感では把捉できない。けれども確かに存在するものとして、物語全体の中に繰り返し語られている。

「いのち」の在りようを、言葉で伝えようとすれば、こうならざるを得ない。五感で直接に把捉することが出来ないのが「いのち」なのだから。

余談ながら、インドのガンジス川を聖なる河とする人たちがいる。流れる死体と一緒に沐浴をしていても、病気に侵されることは無いという。そのガンジスの不思議は、五感によっては把捉証明のできない「いのち」の流れなのだろう。

科学に携わる人たちには、このような考えを受け入れ難いのでは無いかと思う。科学はもともと、五感によって全てを解釈(一般化)しようとするのだから、「五感」で捉えられないものを、前提としてはいない。むしろ五感で捉えられぬものなど無い、全ては科学的に解析可能なのだ!と。

私自身も、科学的に理解できないものは信じない!という傾向を持ってきた。「スピリチュアル」など、なんと胡散臭いものかと毛嫌いしていた時期もあった。説明のつかないものを絶対に信じない。

私は恩師竹内敏晴・野口三千三に導かれ、「からだ」と「ことば」の世界に入り、彼らの没後もその世界を逍遥してきた。40年近く「からだ」と「ことば」と向かい合い続ける中で、それらを識るには「いのち」=「五感で捉えることが出来ないもの」の存在(?)を首肯することでしか、「からだとことばのレッスン」が出来ないことを識った。

よく「幽霊の存在を信じますか?」と問う人がいるけれど、信じる人も信じない人も、自らの五感を頼りにその有無を論じている。そのような話に私は興味がない。「いのち」は、論じることもそれを解析証明することも出来ないのだ。けれども在ると肯かざるを得ない。そうしなければ生きて行けない何か。それが「いのち」なのだ。

これは私の、大変に個人的な「からだ」と「ことば」に関する体験からきた考え方で、それが真実であるからと決めつけて、他の人に教え込んだり強制することのできないもの。

だいぶ時間がかかったけれど、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることも出来ない「いのち」を前提として「からだ」と「ことば」に関わることで、新たなレッスンの地平が拡がってきているのが、今ではわかる。

「いのち」は「働き」だ。目に見えない、五感で捉えることの敵わない「働き」が、途切れることなく常に働いていて、私たちの全ての営みを支えてくれている。レッスンも「いのち」のはたらきによって、成立するのだ。

一年半ほど前に、還暦をむかえ「乾杯!」ならぬ「完敗!」を喫した。「いのち」への降参!降参しないと見えてこないものがある。

瀬戸嶋 充 ばん



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2019年01月22日 (火) | Edit |
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『からだとことばといのちのレッスン』

竹内レッスンの助手を7年間務めたあと、「からだ」とは、「ことば」とは、と30年以上探究しつづけてきた瀬戸嶋さんを講師として名古屋にお迎えします。自分の身体や声を再発見する驚きとワクワクを一緒に楽しみましょう。

◆レッスンは2種類
① 2019年4月6日(土)14:00~17:00
からだをゆるめる基本の方法と、その体感 (野口体操)
② 2019年4月7日(日)10:00~18:00
からだをゆるめた後、深い呼吸やお腹からの声に繋ぐ
(野口体操 および からだとことばのレッスン)

会場:名古屋市南区 (詳しくは参加の方にお伝えします)
講師:瀬戸嶋充・ばん 「人間と演劇研究所」主催者
参加費:①5千円 ②14,000円 (いずれも事前振込)
定員:各10名(定員になり次第締め切ります)
お申込み先:ワークス樹樹 メール worksjuju@gmail.com
お名前・連絡先・参加日をお知らせください。
参加費振込先をお知らせします。
持ち物:動きやすい服装、②は昼食持参

◆2018年 ワンデイレッスン参加者の声(初めての人もリピーターも満足!)
◇もっと自分の体を感じ、ゆるめてあげて、生きていきたいと思いました。そういう自然体が人を受け入れることにもつながると思いました。また参加したいです。 (匿名)
◇身体のつかい方、ゆるめ方、大地とつながると自身をフォーカスしなくてもいいこと、体のことから声を出すことの自然な流れがとても楽しかったです。自分にとっては大きなチャレンジでしたが、とても楽しく大きな解放になり、ありがとうございました。日本人のありかたや精神性のお話がとても心に響きました。 (匿名)
◇どのようなものかあまりわからない中での参加でしたが、参加して本当に良かったです。また日時が合えば参加したいです。 (匿名)
◇久々の瀬戸嶋さんのワーク、楽しかったです。時間が長いのも嬉しいです。
自身の生活やダンスのこと、仕事のことで、色々と考える材料をもらいました。 (匿名)
◇自分が求めていたものはこれだ!とひらけました。何がどう変化したってのはないんですが、声が変わったらしいのでとてもすがすがしい感じです。(石津)
◇ワンデイで時間が十分あったので、からだとことば、声からのアプローチすべてが体験できてとてもよかった。(三谷)
◇1日という短時間でしたけれども、とても濃密なレッスンでした。感謝です!! (夏目)
◇生きる意味とは?とか使命とは? もうこのようなことをむずかしく考えて
いかなくても良いのだ。ゆるめて感じれば良いのだ、と安堵しました。 (匿名)
◇声は普通よりは出すことができると思っていたので、大きな声が出たとき、普段どれだけ抑えていたのだろうと驚きました。今までに見たことのないレッスンでした。(光永)
◇時間が1日あったので良かったです。大阪では3時間~4時間なので、もう少し長ければと思っていたので良かったです。 (和田)
◇瀬戸嶋さん「もっと意識を下におろして・・・」「違う、違
う」「そうそう」私「何で意識まで分かっちゃうの?!」瀬戸嶋さん「見ればわかるよ。やってみるよ。 これと・・・これ」私「なんとなく・・・」瀬戸嶋さん「何となく違うでしょう? そう、わかるもんなんだよ」そして、その人その人に合わせた方法の指導を繰り出していく。 いわれるままに姿勢を直して声を出したときは息の通る管が直径20センチくらいに太くなった感じで驚きました。 (中西)


◆講師紹介:瀬戸嶋 充・ばん
1981年竹内敏晴・野口三千三に師事。
1988年人間と演劇研究所設立。「竹内からだとことばのレッスン」と「野口体操」の継承指導、宮沢賢治作品の舞台創作を続ける。現在、主に東京・大阪・京都でレッスン教室を主宰。その他、内観療法・禅・丹田呼吸法など、日本の伝統に根差した心身修養法を学ぶ。人間と演劇研究所主宰・日本ソマティック心理学協会SPN世話人。

◆講師からのメッセージ
『「からだ」のチカラを抜くレッスン』 緊張という鎧を脱いで、自分本来の姿に立ち還るのが、力を抜くことです。 「しなやかさ」「軽やかさ」「細やかさ(繊細)」、これらは誰もが生まれつき持っている性質です。 成長につれて、これらは失われていきます。ストレスに満ちた現代を生き抜くため、緊張の鎧によって、それらは覆い隠されてしまうのです。いつのまにかその鎧を自分自身と考えて、自分のからだは鈍くて硬いものだと思い込んでしまう。
「力を抜く」ことで、誰もが身に潜めている、本来の性質を取り戻すことができます。 「しなやかさ」「軽やかさ」「細やかさ(繊細)」を取り戻すと、自分の内外の変化を微細に受けとめられるようになります。すなわち感受性が高くなります。「感性の時代」とはよく耳にする言葉です。「感性」が良いとは、感受した変化に自由に対応できることでしょう。これからは、知識や技能偏重の時代から、一人一人の感性に基づいた、自由や豊かさを尊重する時代へと変わっていくのでしょう。
からだの力を抜けば、こころも自由になり、生き生きとした自分=「からだ」を発見することでしょう。『「ことば」のレッスン』は、自分本来の「声」や、自身の深みに根差した「ことば」の成立を目指します。。。。どうぞ『からだとことばといのちのレッスン』を体験してみてください。

◆参考 : 人間と演劇研究所 https://ningen-engeki.jimdo.com/

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